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三題噺  作者:
2025年9月

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49/50

「オフィスビル」「煎餅」「挫く」

【砕ける音】


 九月の終わり。台風が近づく西新宿は、午後の光を灰色に濁らせていた。

 オフィスビル二十二階、営業二課の一室。冷房の音とパソコンのファンだけが鳴り続けている。


 江口啓介は、モニターの向こうで固まったままの数字を見つめていた。

 四半期の売上進捗率、七十八%。ノルマには届かない。

 チームの空気は朝からどんよりとして、言葉を交わす者も少ない。

 ただ一人、派遣社員の高梨真帆だけが、電話口で淡々と声を張っていた。


 ――あの声も、もうすぐ聞けなくなるのかもしれない。


 昨夜、啓介のスマートフォンに届いたメッセージ。

 〈明日、課長に退職の話をします〉

 それは、気持ちを整える暇もなく心を突き刺した。

 真帆は入社二年目。資料作成も提案書も、誰よりも丁寧だった。

 だが過剰な残業、上層部からの詰め。

 最近は、あの澄んだ瞳に疲労の影が濃くなっていた。


 定時少し前、真帆がスーツの上着を手に啓介の席に来た。

「江口さん。少しお時間いいですか」

 声は平静を装っていたが、白い指先がわずかに震えていた。



---


 ビル一階のカフェは、台風前の閑散とした空気に包まれていた。

 コーヒーを頼み、啓介は向かいの席で彼女を待った。

 真帆は紙袋を抱えて座る。そこから出てきたのは、素朴な醤油煎餅だった。


「好きなんです。こういうの」

 袋を開けると、香ばしい匂いが広がった。

 煎餅を齧る音だけが静かな店内に響く。

 啓介は苦笑した。

「退職の話をする人が、ずいぶん平然としてるな」

「平然じゃないです。……でも、これ食べると落ち着くんです」


 そして真帆はぽつりぽつりと語り始めた。

 営業部の競争、成果主義の数字。

 深夜まで続く資料作り。

 自分の頑張りが、誰かの当たり前になっていく恐怖。


「先週、夜中に駅の階段で足を挫いたんです。

 痛くて動けないのに、明日のプレゼン資料のことばかり考えてた。

 そのとき気づきました。心まで挫かれてるな、って」


 啓介は胸が痛んだ。

 自分もかつて、同じように心をすり減らした。

 同期が次々と辞めていく中で、ただ「残った」だけの自分。

 部下を守ると言いながら、現実には守れていない。



---


「真帆」

 啓介はゆっくりと言葉を探した。

「辞めることを止める権利は俺にはない。

 でも、君が消えたら、また同じことが繰り返される。

 俺は、それを変えたいんだ」


 真帆は視線を落とし、煎餅を指先で割った。

 パキ、と小さな破裂音が静けさに響く。

 粉がテーブルに散る。

 その音が、啓介には心の奥の何かを砕く合図のように思えた。


「変えられると思いますか、あの会社」

「簡単じゃない。けど、変えようとしなきゃ何も起きない」

「江口さん一人で?」

「一人じゃない。俺は君と、他の皆とやりたい」


 真帆は黙ったまま、欠片をゆっくり口に運んだ。

 雨脚が窓を叩き、遠くで雷鳴が低く響いた。



---


 しばらくして、彼女は小さく息を吐いた。

「……少し、考えさせてください」

 その声は弱いが、どこか決意の色を帯びていた。


 カフェを出ると、夜の街は風で揺れていた。

 ビルのガラスに反射する赤いテールランプが、雨粒で滲む。

 啓介は傘を差し出し、二人で駅まで歩いた。

 真帆の足取りはまだぎこちないが、先ほどよりしっかりしている。


「煎餅、今度は甘いのがいいな」

 彼女がふと笑った。

 その笑顔に、啓介は胸の奥が温かくなるのを感じた。

 この街の嵐がどれほど強くても、人は何度でも立ち上がれる。



---


 翌週。

 啓介は課長に、部署全体の働き方改革の提案書を差し出した。

 真帆はまだ返事をしていない。

 だが朝のデスクで、彼女が小さな袋の煎餅を啓介のマグカップの横に置いたのを、

 彼は見逃さなかった。


 砕ける音は、終わりではない。

 それは、挫かれた心がもう一度歩き出すための、ささやかな始まりだった。

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