「オフィスビル」「煎餅」「挫く」
【砕ける音】
九月の終わり。台風が近づく西新宿は、午後の光を灰色に濁らせていた。
オフィスビル二十二階、営業二課の一室。冷房の音とパソコンのファンだけが鳴り続けている。
江口啓介は、モニターの向こうで固まったままの数字を見つめていた。
四半期の売上進捗率、七十八%。ノルマには届かない。
チームの空気は朝からどんよりとして、言葉を交わす者も少ない。
ただ一人、派遣社員の高梨真帆だけが、電話口で淡々と声を張っていた。
――あの声も、もうすぐ聞けなくなるのかもしれない。
昨夜、啓介のスマートフォンに届いたメッセージ。
〈明日、課長に退職の話をします〉
それは、気持ちを整える暇もなく心を突き刺した。
真帆は入社二年目。資料作成も提案書も、誰よりも丁寧だった。
だが過剰な残業、上層部からの詰め。
最近は、あの澄んだ瞳に疲労の影が濃くなっていた。
定時少し前、真帆がスーツの上着を手に啓介の席に来た。
「江口さん。少しお時間いいですか」
声は平静を装っていたが、白い指先がわずかに震えていた。
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ビル一階のカフェは、台風前の閑散とした空気に包まれていた。
コーヒーを頼み、啓介は向かいの席で彼女を待った。
真帆は紙袋を抱えて座る。そこから出てきたのは、素朴な醤油煎餅だった。
「好きなんです。こういうの」
袋を開けると、香ばしい匂いが広がった。
煎餅を齧る音だけが静かな店内に響く。
啓介は苦笑した。
「退職の話をする人が、ずいぶん平然としてるな」
「平然じゃないです。……でも、これ食べると落ち着くんです」
そして真帆はぽつりぽつりと語り始めた。
営業部の競争、成果主義の数字。
深夜まで続く資料作り。
自分の頑張りが、誰かの当たり前になっていく恐怖。
「先週、夜中に駅の階段で足を挫いたんです。
痛くて動けないのに、明日のプレゼン資料のことばかり考えてた。
そのとき気づきました。心まで挫かれてるな、って」
啓介は胸が痛んだ。
自分もかつて、同じように心をすり減らした。
同期が次々と辞めていく中で、ただ「残った」だけの自分。
部下を守ると言いながら、現実には守れていない。
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「真帆」
啓介はゆっくりと言葉を探した。
「辞めることを止める権利は俺にはない。
でも、君が消えたら、また同じことが繰り返される。
俺は、それを変えたいんだ」
真帆は視線を落とし、煎餅を指先で割った。
パキ、と小さな破裂音が静けさに響く。
粉がテーブルに散る。
その音が、啓介には心の奥の何かを砕く合図のように思えた。
「変えられると思いますか、あの会社」
「簡単じゃない。けど、変えようとしなきゃ何も起きない」
「江口さん一人で?」
「一人じゃない。俺は君と、他の皆とやりたい」
真帆は黙ったまま、欠片をゆっくり口に運んだ。
雨脚が窓を叩き、遠くで雷鳴が低く響いた。
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しばらくして、彼女は小さく息を吐いた。
「……少し、考えさせてください」
その声は弱いが、どこか決意の色を帯びていた。
カフェを出ると、夜の街は風で揺れていた。
ビルのガラスに反射する赤いテールランプが、雨粒で滲む。
啓介は傘を差し出し、二人で駅まで歩いた。
真帆の足取りはまだぎこちないが、先ほどよりしっかりしている。
「煎餅、今度は甘いのがいいな」
彼女がふと笑った。
その笑顔に、啓介は胸の奥が温かくなるのを感じた。
この街の嵐がどれほど強くても、人は何度でも立ち上がれる。
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翌週。
啓介は課長に、部署全体の働き方改革の提案書を差し出した。
真帆はまだ返事をしていない。
だが朝のデスクで、彼女が小さな袋の煎餅を啓介のマグカップの横に置いたのを、
彼は見逃さなかった。
砕ける音は、終わりではない。
それは、挫かれた心がもう一度歩き出すための、ささやかな始まりだった。




