「水中」「翡翠」「食べる」
【翡翠の潜る夜】
その夜、真央は駅前のバーを飛び出し、無意識のうちに港へ向かっていた。
都会のネオンを背に、海沿いの道は潮の匂いが濃い。
足元のアスファルトが湿気を吸い、革靴はすぐに冷たくなった。
胸ポケットには、小さな翡翠色の石。
亡き祖母が残したお守りだった。
「迷ったら海を見ろ」
幼いころから耳にしてきた言葉が、今夜ほど重く感じられたことはない。
数時間前、勤めていた出版社で編集長と激しく衝突した。
“話題性だけ”を優先した新企画に、真央はどうしても賛同できなかった。
売れる本を作ることは大切だ。
けれど、作家が積み上げてきた時間と想いを軽んじるやり方に、
「それでは心を食べてしまう」と口走ってしまったのだ。
編集長の眉間が歪み、会議室の空気は一気に凍りついた。
海沿いのデッキに着くと、満潮に近い波が足元まで迫っていた。
月は薄雲に隠れ、闇は一層深い。
ポケットから翡翠の石を取り出し、そっと握る。
冷たい感触が掌にすべり、心臓の鼓動が静まっていく。
ふと、沖合に淡い光が見えた。
緑がかった、まるで翡翠のような輝き。
光は海面を裂くように近づき、波間から一人の少女が現れた。
濡れた黒髪が月の欠片を散らす。
瞳は翡翠色に揺れ、真央をまっすぐ見つめていた。
「……人間?」
思わず声が漏れる。
少女は微笑むと、するりと海から上がり、
水滴を纏ったまま真央の目の前に立った。
透けるような肌が夜風に震える。
「あなた、心が空っぽ。だから海が呼んだ」
鈴のような声だった。
「心が、空っぽ?」
「仕事のことで、何かを食べられたでしょう」
真央は息を呑む。
少女は小首を傾げ、波打つ髪をかき上げた。
「人はね、言葉や数字で自分を削っていく。
その欠片を海は拾い、私たちは食べるの。
少し分けてあげようか。あなたに足りないものを」
そう言うと、少女は手を差し伸べた。
掌には翡翠色の小さな貝殻。
「これを口に含めば、海の記憶を食べられる。
勇気も静けさも、ぜんぶ」
怪しくも甘い誘い。
真央は一瞬、指先を伸ばしかけた。
だが祖母の声がよぎる。
――迷ったら海を見ろ。
見ろ、であって、食べろではない。
真央は首を振った。
「僕は、自分の心は自分で満たしたい」
少女の瞳がかすかに揺れた。
けれど次の瞬間、彼女は柔らかく笑った。
「それでいい。あなたはまだ食べられていない」
翡翠色の光が彼女を包み、
身体は細かい泡へとほどけ、やがて夜の海に溶けていった。
残ったのは、ほのかな潮の香りだけ。
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翌朝、真央は編集長に辞表を出さず、代わりに新しい企画書を提出した。
作家の想いを丁寧に紡ぐエッセイ集。
売上は未知数だが、胸の奥は確かに満ちていた。
デスクの上、昨夜と同じ翡翠の石が淡く光った気がした。
それは、海からのささやかな返事のようだった。




