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三題噺  作者:
2025年9月

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「水中」「翡翠」「食べる」

【翡翠の潜る夜】



 その夜、真央は駅前のバーを飛び出し、無意識のうちに港へ向かっていた。

 都会のネオンを背に、海沿いの道は潮の匂いが濃い。

 足元のアスファルトが湿気を吸い、革靴はすぐに冷たくなった。


 胸ポケットには、小さな翡翠色の石。

 亡き祖母が残したお守りだった。

 「迷ったら海を見ろ」

 幼いころから耳にしてきた言葉が、今夜ほど重く感じられたことはない。


 数時間前、勤めていた出版社で編集長と激しく衝突した。

 “話題性だけ”を優先した新企画に、真央はどうしても賛同できなかった。

 売れる本を作ることは大切だ。

 けれど、作家が積み上げてきた時間と想いを軽んじるやり方に、

 「それでは心を食べてしまう」と口走ってしまったのだ。

 編集長の眉間が歪み、会議室の空気は一気に凍りついた。


 海沿いのデッキに着くと、満潮に近い波が足元まで迫っていた。

 月は薄雲に隠れ、闇は一層深い。

 ポケットから翡翠の石を取り出し、そっと握る。

 冷たい感触が掌にすべり、心臓の鼓動が静まっていく。


 ふと、沖合に淡い光が見えた。

 緑がかった、まるで翡翠のような輝き。

 光は海面を裂くように近づき、波間から一人の少女が現れた。

 濡れた黒髪が月の欠片を散らす。

 瞳は翡翠色に揺れ、真央をまっすぐ見つめていた。


「……人間?」

 思わず声が漏れる。


 少女は微笑むと、するりと海から上がり、

 水滴を纏ったまま真央の目の前に立った。

 透けるような肌が夜風に震える。


「あなた、心が空っぽ。だから海が呼んだ」

 鈴のような声だった。

「心が、空っぽ?」

「仕事のことで、何かを食べられたでしょう」

 真央は息を呑む。


 少女は小首を傾げ、波打つ髪をかき上げた。

「人はね、言葉や数字で自分を削っていく。

 その欠片を海は拾い、私たちは食べるの。

 少し分けてあげようか。あなたに足りないものを」


 そう言うと、少女は手を差し伸べた。

 掌には翡翠色の小さな貝殻。

「これを口に含めば、海の記憶を食べられる。

 勇気も静けさも、ぜんぶ」


 怪しくも甘い誘い。

 真央は一瞬、指先を伸ばしかけた。

 だが祖母の声がよぎる。

 ――迷ったら海を見ろ。

 見ろ、であって、食べろではない。


 真央は首を振った。

「僕は、自分の心は自分で満たしたい」


 少女の瞳がかすかに揺れた。

 けれど次の瞬間、彼女は柔らかく笑った。

「それでいい。あなたはまだ食べられていない」


 翡翠色の光が彼女を包み、

 身体は細かい泡へとほどけ、やがて夜の海に溶けていった。

 残ったのは、ほのかな潮の香りだけ。



---


 翌朝、真央は編集長に辞表を出さず、代わりに新しい企画書を提出した。

 作家の想いを丁寧に紡ぐエッセイ集。

 売上は未知数だが、胸の奥は確かに満ちていた。


 デスクの上、昨夜と同じ翡翠の石が淡く光った気がした。

 それは、海からのささやかな返事のようだった。

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