「耳」「縁」「よくばり」
【よくばりな縁】
朝の商店街は、油で揚げたてのコロッケの匂いと、どこか甘い花の香りが混じっていた。
古書店を営む遥は、いつも通り店先に並べた本の角をそろえていたが、背後から柔らかな声が聞こえて耳がぴくりと動いた。
「……あれ、遥じゃない?」
振り向くと、大学時代の友人・里奈が立っていた。十年ぶりの再会だ。
思わず言葉がつまる。
懐かしさと同時に、胸の奥にしまっていた小さな後悔が顔を出す。
就職活動の頃、里奈は大手出版社に受かったが、自分は町に残る道を選んだ。
「一緒に編集の仕事をしよう」という里奈の誘いを断ったあの日から、二人の縁は遠のいたままだった。
店の奥に入ってもらい、湯気の立つコーヒーを出す。
里奈は昔と変わらない大きな瞳で笑う。
「久しぶり。ここの香り、懐かしいね」
言葉のひとつひとつが、遥の耳にやわらかく届く。
話は尽きず、あっという間に昼を過ぎた。
里奈は都会の出版社で忙しい日々を送る一方、心を休める場所を探していたという。
「都会のスピード、少し疲れちゃって。ねえ、遥、私ここに戻ってきてもいいかな」
遥は驚いた。
「え、もちろん……でも出版社は?」
「もう十分やった。今度は私が本を“育てる”番かな」
胸の奥がじんわり温かくなる。
この再会は偶然じゃない。切れたと思っていた縁が、時を越えて静かに結び直されたのだ。
別れ際、里奈が少し照れたように笑った。
「ねえ、次は一緒に何かやろう。編集も、お店のことも。ぜんぶ――欲張りすぎかな?」
遥は首を振った。
「ううん。人生は“よくばり”なくらいがちょうどいい」
午後の陽が傾き、店先の風鈴が軽やかに鳴る。
その音が二人の耳にやさしく染み渡り、新しい物語の始まりを告げていた。
連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。
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