「梨」「野良犬」「商売繁盛」
【招き犬】
真夏の午後、商店街の外れにある小さな果物店「たかはし果樹園」は、いつもより早く暖簾を出していた。
店主の孝夫は、今年初めての梨を並べ終えると、額の汗をぬぐった。
青く透きとおる皮に水滴が光り、ほのかに甘い香りが漂う。
去年は台風で収穫が激減し、店は赤字すれすれ。
今年も天候不順が続き、内心は不安だらけだ。
それでも梨の出来は上々。
「これで少しは商売繁盛につながれば……」
独り言のように、孝夫は棚を見渡した。
ふと視線の先、店先のベンチに一匹の野良犬が座っていた。
中型の雑種で、茶色の毛はところどころ泥で固まっている。
痩せてはいるが、目だけは澄んでいて、じっとこちらを見つめていた。
「おまえ、どこから来たんだ」
孝夫が声をかけても、犬は耳だけ動かす。
追い払う気にはなれず、裏口から水を入れたボウルを持ってきて差し出した。
犬は小さく尻尾を振り、水を音も立てずに飲み干した。
その日以来、野良犬は毎日やって来る。
客たちは「看板犬だね」と笑い、買い物ついでに犬へ声をかけたり、子どもたちは撫でたりしていった。
店は不思議とにぎわい始め、梨の評判も広まっていく。
ある晩、商店街の寄り合いで、隣の八百屋が孝夫に言った。
「最近、あんたんとこ、やけに客が増えたな。あの犬のおかげじゃないか?」
孝夫は笑って肩をすくめた。
確かに、犬が来てから売り上げは倍近く。
店の前には「商売繁盛」と書かれた赤い紙札を貼る客まで現れた。
秋の終わり、梨の季節が終盤を迎えたある日。
犬はいつもの時間になっても現れなかった。
孝夫は胸の奥が急に空っぽになったような感覚を覚えた。
翌朝も、翌晩も犬は来ない。
一週間後、最後の梨を並べ終えた頃、店先に一人の若い女性が立っていた。
彼女の足元には、あの野良犬が静かに座っている。
「この子、やっと見つけました。迷子だったんです」
女性は深々と頭を下げた。
犬は孝夫の方を振り返り、尻尾を一度だけ振った。
孝夫は胸が熱くなった。
「元気でな」
言葉がそれだけしか出てこない。
犬と女性が去った後、店内には一瞬だけ寂しさが漂った。
しかし次の瞬間、常連客が笑顔で入ってきて言う。
「今年の梨、最高だったよ。また来年も頼むよ」
孝夫は空を見上げ、どこかで走っているであろうあの犬を思った。
――商売繁盛は、きっとまだ続く。
連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。
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