「タクシー」「大吟醸」「触る」
【車中の盃】
終電を逃した夜、佐伯弘一はタクシーの後部座席に身を沈めていた。
窓の外には、街灯とネオンが滲んで流れていく。酒に熱をもらった頬に、ひやりとしたガラスの感触が心地よかった。
喉の奥がひりつく。大吟醸を何杯もあおったせいだ。部下に勧められ、上司に強いられ、断れずに重ねた杯。香り高い酒のはずなのに、今では胃の底に鉛のように沈んでいる。
運転席のルームミラー越しに、運転手がちらりと視線をよこした。
「だいぶ飲まれましたね」
「……ええ、まあ」
佐伯は苦笑し、額を指で押さえた。
四十を過ぎると、酒は快楽より負担をもたらす。身体は正直だ。翌日も容赦なく仕事があり、また飲み会もある。そんな生活を、もう何年続けてきただろう。
――俺はいったい、何をしているんだ。
ふと浮かぶのは家族の顔だった。
妻・美穂は、ここ数年ほとんど笑わなくなった。かつては酔って帰れば「飲みすぎよ」と小言を言いながらも、温かいお茶を出してくれたのに。今では食卓にラップをかけた夕食を残すだけで、自室にこもってしまう。
息子の直人は小学三年生。以前は帰宅すれば玄関で「パパ!」と抱きついてきた。そのぬくもりに触るのが、仕事の疲れを忘れる唯一の瞬間だった。だが今は、ゲーム機の画面から顔を上げることすら少ない。
車中の沈黙に胸が詰まる。
赤信号でタクシーが止まると、窓の外にコンビニが見えた。若いカップルが缶チューハイを手に笑いながら出てくる。その姿に、佐伯は奇妙な羨望を覚えた。軽やかさ、楽しさ。酒がまだ「喜び」だった頃の自分を思い出す。
そのとき、運転手が不意に声をかけてきた。
「旦那さん、仕事……大変なんでしょう」
佐伯は驚き、ミラー越しに目をやった。
「……どうして?」
「顔に出てますよ。酒でごまかしてるけど、本当は心が疲れてる」
図星だった。思わず言葉を失う。
「俺は……歩き方を間違えたのかもしれない」
無意識に漏らした独白に、運転手は頷いた。
「間違えたと思ったら、直せばいいんです。線路は戻れなくても、道なら曲がれる。歩き直せますよ」
その言葉に、胸の奥で何かが弾けた。
流れる街の明かりが、妙に鮮やかに見えた。
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タクシーが自宅マンションに着いたとき、佐伯は深く息をついた。
玄関を開けると、リビングの灯りがまだついていた。テーブルには直人が描いた絵が広げられている。家族三人が並んで笑っている絵。
美穂が振り返り、驚いたように言った。
「……早かったのね」
その一言に胸が締めつけられた。
絵に描かれた笑顔に触ると、熱いものが込み上げてきた。
「ただいま」
久しく言えなかった言葉が口をついた。
美穂の顔に、わずかに笑みが浮かぶ。
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翌日、会社ではいつものように飲み会の誘いがあった。
「佐伯さん、今日もいきますよね? ほら、大吟醸開けましょうよ」
部下の明るい声に、佐伯は一瞬迷った。いつものように笑って参加するのは簡単だ。断れば「空気が読めない」と思われるだろう。
だが、昨夜の運転手の言葉がよぎった。
――道なら、曲がれる。
「悪い、今日は帰る」
口にした瞬間、場がざわついた。
「え、係長が?」「珍しいっすね」
背中に突き刺さる視線を感じながらも、佐伯は逃げずに出口に向かった。
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家に帰ると、直人がリビングで宿題をしていた。
「パパ、算数わかんない」
差し出されたノートには、分数の計算が並んでいる。
佐伯は膝をついて隣に座った。息子の小さな肩に触る。温かさに胸が熱くなる。
「ここはな、分母をそろえるんだ」
「ふんふん……あ、できた!」
直人の笑顔は、いつのまにか忘れていた輝きだった。
その様子をキッチンから見ていた美穂が、小さく笑った。
「やっと、父親らしいじゃない」
その言葉に、佐伯は不器用にうなずいた。
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日々はすぐには変わらない。
飲み会を断れば、上司に嫌味を言われる。仕事の量は減らない。
それでも佐伯は、夜は家に帰ることを優先した。直人と風呂に入り、美穂と一緒に夕飯を食べる。それだけで、日常が少しずつ温もりを取り戻していった。
ある日曜日、家族で近所の公園へ出かけた。直人がサッカーボールを蹴り、佐伯が受け止める。汗をかく感覚すら久しぶりだった。
芝生に座る美穂が、その光景を見守りながら微笑んでいる。
その瞬間、佐伯は確信した。
――これが、本当に守るべきものだ。
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夜、寝室で美穂がぽつりと言った。
「最近、少し変わったわね」
「そうか?」
「ええ。……前は、遠くに行ってしまったみたいだった。でも、今はちゃんと家にいる」
佐伯は黙って頷き、美穂の手に触れた。
その温もりが、どんな酒よりも心を満たした。
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