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三題噺  作者:
2025年9月

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39/50

「タクシー」「大吟醸」「触る」

【車中の盃】


 終電を逃した夜、佐伯弘一はタクシーの後部座席に身を沈めていた。

 窓の外には、街灯とネオンが滲んで流れていく。酒に熱をもらった頬に、ひやりとしたガラスの感触が心地よかった。


 喉の奥がひりつく。大吟醸を何杯もあおったせいだ。部下に勧められ、上司に強いられ、断れずに重ねた杯。香り高い酒のはずなのに、今では胃の底に鉛のように沈んでいる。


 運転席のルームミラー越しに、運転手がちらりと視線をよこした。

「だいぶ飲まれましたね」

「……ええ、まあ」

 佐伯は苦笑し、額を指で押さえた。


 四十を過ぎると、酒は快楽より負担をもたらす。身体は正直だ。翌日も容赦なく仕事があり、また飲み会もある。そんな生活を、もう何年続けてきただろう。


 ――俺はいったい、何をしているんだ。


 ふと浮かぶのは家族の顔だった。

 妻・美穂は、ここ数年ほとんど笑わなくなった。かつては酔って帰れば「飲みすぎよ」と小言を言いながらも、温かいお茶を出してくれたのに。今では食卓にラップをかけた夕食を残すだけで、自室にこもってしまう。


 息子の直人は小学三年生。以前は帰宅すれば玄関で「パパ!」と抱きついてきた。そのぬくもりに触るのが、仕事の疲れを忘れる唯一の瞬間だった。だが今は、ゲーム機の画面から顔を上げることすら少ない。


 車中の沈黙に胸が詰まる。

 赤信号でタクシーが止まると、窓の外にコンビニが見えた。若いカップルが缶チューハイを手に笑いながら出てくる。その姿に、佐伯は奇妙な羨望を覚えた。軽やかさ、楽しさ。酒がまだ「喜び」だった頃の自分を思い出す。


 そのとき、運転手が不意に声をかけてきた。

「旦那さん、仕事……大変なんでしょう」


 佐伯は驚き、ミラー越しに目をやった。

「……どうして?」

「顔に出てますよ。酒でごまかしてるけど、本当は心が疲れてる」


 図星だった。思わず言葉を失う。


「俺は……歩き方を間違えたのかもしれない」

 無意識に漏らした独白に、運転手は頷いた。


「間違えたと思ったら、直せばいいんです。線路は戻れなくても、道なら曲がれる。歩き直せますよ」


 その言葉に、胸の奥で何かが弾けた。

 流れる街の明かりが、妙に鮮やかに見えた。



---


 タクシーが自宅マンションに着いたとき、佐伯は深く息をついた。

 玄関を開けると、リビングの灯りがまだついていた。テーブルには直人が描いた絵が広げられている。家族三人が並んで笑っている絵。


 美穂が振り返り、驚いたように言った。

「……早かったのね」


 その一言に胸が締めつけられた。

 絵に描かれた笑顔に触ると、熱いものが込み上げてきた。

「ただいま」

 久しく言えなかった言葉が口をついた。


 美穂の顔に、わずかに笑みが浮かぶ。



---


 翌日、会社ではいつものように飲み会の誘いがあった。

「佐伯さん、今日もいきますよね? ほら、大吟醸開けましょうよ」

 部下の明るい声に、佐伯は一瞬迷った。いつものように笑って参加するのは簡単だ。断れば「空気が読めない」と思われるだろう。


 だが、昨夜の運転手の言葉がよぎった。

 ――道なら、曲がれる。


「悪い、今日は帰る」

 口にした瞬間、場がざわついた。

「え、係長が?」「珍しいっすね」

 背中に突き刺さる視線を感じながらも、佐伯は逃げずに出口に向かった。



---


 家に帰ると、直人がリビングで宿題をしていた。

「パパ、算数わかんない」

 差し出されたノートには、分数の計算が並んでいる。


 佐伯は膝をついて隣に座った。息子の小さな肩に触る。温かさに胸が熱くなる。

「ここはな、分母をそろえるんだ」

「ふんふん……あ、できた!」


 直人の笑顔は、いつのまにか忘れていた輝きだった。


 その様子をキッチンから見ていた美穂が、小さく笑った。

「やっと、父親らしいじゃない」


 その言葉に、佐伯は不器用にうなずいた。



---


 日々はすぐには変わらない。

 飲み会を断れば、上司に嫌味を言われる。仕事の量は減らない。

 それでも佐伯は、夜は家に帰ることを優先した。直人と風呂に入り、美穂と一緒に夕飯を食べる。それだけで、日常が少しずつ温もりを取り戻していった。


 ある日曜日、家族で近所の公園へ出かけた。直人がサッカーボールを蹴り、佐伯が受け止める。汗をかく感覚すら久しぶりだった。

 芝生に座る美穂が、その光景を見守りながら微笑んでいる。


 その瞬間、佐伯は確信した。

 ――これが、本当に守るべきものだ。



---


 夜、寝室で美穂がぽつりと言った。

「最近、少し変わったわね」

「そうか?」

「ええ。……前は、遠くに行ってしまったみたいだった。でも、今はちゃんと家にいる」


 佐伯は黙って頷き、美穂の手に触れた。

 その温もりが、どんな酒よりも心を満たした。

連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。


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