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三題噺  作者:
2025年9月

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34/50

「夕暮れの海」「花束」「果てる」

【果てるまでの花束】


 砂浜を渡る風は、まだ夏の名残を残していたが、日が落ちるにつれて肌寒さを伴うようになってきた。

 夕暮れの海は、真昼のそれとはまるで別物だった。白波は朱に染まり、遠くの水平線は紫に沈む。波音に混じってカモメの鳴き声が響くが、それさえも静けさを強調するように思えた。


 その砂浜を、ひとりの女が歩いていた。

 白いワンピースの裾を潮風が揺らし、手には花束が抱えられている。赤い薔薇とカスミソウの取り合わせ。誰に渡すのか、あるいは誰のためのものなのか――それは彼女だけが知っていた。


 名を、綾香という。

 三十路を迎えたばかり。都会の広告代理店で働き詰めの生活をしてきたが、ある日ふと糸が切れたように会社を辞め、数週間だけ実家のある海辺の町に戻ってきたのだ。



---


 防波堤の上に、もう一人の人影があった。

 黒いジャケットを羽織り、海を見つめて立っている男。

 綾香がその背中を見つけた瞬間、心臓が強く跳ねた。


「……健人」


 彼は振り向いた。

 変わらぬ笑み。だがどこか影を帯びている。


「久しぶりだな、綾香」

「ほんとに……五年ぶりかな」


 そう、二人はかつて恋人同士だった。

 大学時代に出会い、互いの夢を語り合い、未来を誓い合った。だが現実は夢のようにはいかず、都会に出てからすれ違いが続き、やがて別れを選んだのだった。



---


 綾香は花束を抱え直し、波打ち際を見やった。

「ねえ、これ、覚えてる?」


 彼女が指さしたのは沖の小さな島影だった。

 大学四年の夏、二人はボートでそこへ渡り、夕日が沈むのを見ながら未来を語り合った。健人はプロポーズまがいの言葉を口にし、綾香は笑って「それ、指輪じゃなくて花束で言って」と返した。


 あの時の約束は果たされぬまま、海の向こうに沈んでしまった。



---


「それで……」健人が視線を落とす。「今さら、なんで俺に会いに?」


 綾香は花束を強く抱いた。

「最後に、渡したかったの。この花束」


 健人は目を細めた。

「最後に?」


「うん。私、東京には戻らない。来月から海外に行くの。ボランティアの医療支援。……きっと、もう二度と会えないと思う」


 沈黙が落ちた。

 波の音がやけに大きく聞こえる。



---


「……俺もだ」

 健人が低く呟いた。

「町工場を辞めて、北に行く。漁師になるんだ。たぶん、ここには戻らない」


 二人は互いに目を見合わせ、同時に小さく笑った。

 未来の軌道は交わらなかった。それでもどこか似たように、古い土地を果てまで離れていこうとしている。



---


 綾香は花束を差し出した。

「これ、受け取って。約束の代わりに」


 健人はしばらく迷ったようだったが、やがて両手でそれを受け取った。

 潮風に花びらが揺れ、薔薇の赤が夕暮れの空に溶けていく。


「ありがとう」

「うん……」


 それだけで、胸がいっぱいになった。



---


 太陽が沈みきる。空は群青に染まり、星が一つ、また一つと瞬き始めた。

 二人は並んで座り、何も言わず海を眺めた。


 やがて綾香が静かに口を開く。

「ねえ、健人。愛って、どこで果てるんだろうね」


 健人は少し考え、花束を見下ろした。

「果てるものなのかな。たぶん形を変えるんだろう。恋人じゃなくなっても、思い出になっても……こうして会えば、消えない」


 綾香の頬を涙が伝った。

 果てると信じていたものが、実はまだ残っていた。それは痛みでもあり、救いでもあった。



---


 別れの時が近づいた。

 綾香は立ち上がり、砂浜を歩き出す。振り返れば、健人がまだ防波堤に立っていた。

 花束を抱え、遠くを見つめながら。


 その姿を目に焼きつけ、綾香は目を閉じた。

 愛は果てた。だが同時に、永遠にも似た余韻を残して。

連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。


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