「夕暮れの海」「花束」「果てる」
【果てるまでの花束】
砂浜を渡る風は、まだ夏の名残を残していたが、日が落ちるにつれて肌寒さを伴うようになってきた。
夕暮れの海は、真昼のそれとはまるで別物だった。白波は朱に染まり、遠くの水平線は紫に沈む。波音に混じってカモメの鳴き声が響くが、それさえも静けさを強調するように思えた。
その砂浜を、ひとりの女が歩いていた。
白いワンピースの裾を潮風が揺らし、手には花束が抱えられている。赤い薔薇とカスミソウの取り合わせ。誰に渡すのか、あるいは誰のためのものなのか――それは彼女だけが知っていた。
名を、綾香という。
三十路を迎えたばかり。都会の広告代理店で働き詰めの生活をしてきたが、ある日ふと糸が切れたように会社を辞め、数週間だけ実家のある海辺の町に戻ってきたのだ。
---
防波堤の上に、もう一人の人影があった。
黒いジャケットを羽織り、海を見つめて立っている男。
綾香がその背中を見つけた瞬間、心臓が強く跳ねた。
「……健人」
彼は振り向いた。
変わらぬ笑み。だがどこか影を帯びている。
「久しぶりだな、綾香」
「ほんとに……五年ぶりかな」
そう、二人はかつて恋人同士だった。
大学時代に出会い、互いの夢を語り合い、未来を誓い合った。だが現実は夢のようにはいかず、都会に出てからすれ違いが続き、やがて別れを選んだのだった。
---
綾香は花束を抱え直し、波打ち際を見やった。
「ねえ、これ、覚えてる?」
彼女が指さしたのは沖の小さな島影だった。
大学四年の夏、二人はボートでそこへ渡り、夕日が沈むのを見ながら未来を語り合った。健人はプロポーズまがいの言葉を口にし、綾香は笑って「それ、指輪じゃなくて花束で言って」と返した。
あの時の約束は果たされぬまま、海の向こうに沈んでしまった。
---
「それで……」健人が視線を落とす。「今さら、なんで俺に会いに?」
綾香は花束を強く抱いた。
「最後に、渡したかったの。この花束」
健人は目を細めた。
「最後に?」
「うん。私、東京には戻らない。来月から海外に行くの。ボランティアの医療支援。……きっと、もう二度と会えないと思う」
沈黙が落ちた。
波の音がやけに大きく聞こえる。
---
「……俺もだ」
健人が低く呟いた。
「町工場を辞めて、北に行く。漁師になるんだ。たぶん、ここには戻らない」
二人は互いに目を見合わせ、同時に小さく笑った。
未来の軌道は交わらなかった。それでもどこか似たように、古い土地を果てまで離れていこうとしている。
---
綾香は花束を差し出した。
「これ、受け取って。約束の代わりに」
健人はしばらく迷ったようだったが、やがて両手でそれを受け取った。
潮風に花びらが揺れ、薔薇の赤が夕暮れの空に溶けていく。
「ありがとう」
「うん……」
それだけで、胸がいっぱいになった。
---
太陽が沈みきる。空は群青に染まり、星が一つ、また一つと瞬き始めた。
二人は並んで座り、何も言わず海を眺めた。
やがて綾香が静かに口を開く。
「ねえ、健人。愛って、どこで果てるんだろうね」
健人は少し考え、花束を見下ろした。
「果てるものなのかな。たぶん形を変えるんだろう。恋人じゃなくなっても、思い出になっても……こうして会えば、消えない」
綾香の頬を涙が伝った。
果てると信じていたものが、実はまだ残っていた。それは痛みでもあり、救いでもあった。
---
別れの時が近づいた。
綾香は立ち上がり、砂浜を歩き出す。振り返れば、健人がまだ防波堤に立っていた。
花束を抱え、遠くを見つめながら。
その姿を目に焼きつけ、綾香は目を閉じた。
愛は果てた。だが同時に、永遠にも似た余韻を残して。
連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。
感想や評価お待ちしています。




