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三題噺  作者:
2025年9月

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32/50

「キッチン」「ブレスレット」「挫く」

【熱の残る手首】


 鉄板の上で油がはじける音が、まるで戦場の銃声のように響いていた。

 時計の針は午後六時半を示している。居酒屋「葵」の厨房は、今夜も例外なく戦場だった。

  「翔太! その唐揚げ、あと二分で上げろ! 遅れるなよ!」

「はい、シェフ!」

   怒鳴る声は店主の宮本だ。五十を過ぎた男だが、背筋は伸び、鋭い眼光は厨房の誰一人として気を緩めさせない。翔太は、火傷しそうなほど熱を持ったフライヤーの前で、冷や汗をぬぐう間もなく揚げ具合を見極める。

   ホールからは客のざわめきと、時折聞こえる笑い声。キッチンの中とは別世界だ。唐揚げを上げ、油を切って皿に移すと、隣では先輩の美咲が次の料理を仕上げていた。

  「ほら、盛り付けはもっと大胆に。客は見た目でも食うんだから」

「すみません!」

   美咲は三十手前の女性で、この店の厨房を長く支えてきた。的確で速い動きは惚れ惚れするほどだが、叱責の言葉は鋭く胸に突き刺さる。翔太は、彼女の横顔を見るとき、少しだけ息苦しくなる。尊敬と焦燥が入り混じった感情だ。

   そんな戦場のような夜が続いたある日、翔太は手首を抑えて顔をしかめた。

  「おい、どうした」

 宮本が気づいた。

「……ちょっと、捻ったみたいです」

「ふざけんな! 仕込みで怪我する奴があるか!」

   翔太は黙って首を振った。本当は、昨日の深夜練習で無理をしたのだ。自宅の台所で、刃物の扱いに慣れようと、何時間もひたすら野菜を刻み続けた。その結果、手首を挫いてしまった。

  「医者に行け」

「でも、今日の仕込みがありますし……」

「アホ! お前が無理して店が回らなくなったらどうすんだ。行け!」

   声は荒いが、宮本の目は心配の色を帯びていた。翔太は仕方なく、翌朝病院へ行った。診断は「手首の捻挫。安静が必要」。調理の現場に立つには致命的な怪我だった。

   数日間、翔太はホールに回された。料理の音を聞きながら皿を運ぶのは、拷問のようだった。焦燥感に押し潰されそうなとき、美咲が休憩中に声をかけてきた。

  「焦ってるでしょ」

「……まあ」

「私も昔やったよ。手首」

「え?」

「最初はね、無理やり動かしてた。でも悪化して、半年も包丁握れなかった」

   翔太は思わず息をのんだ。美咲が包丁を持たない自分を想像できなかった。

  「だから言っとく。今は休め。それが一番効く治療」

   そのとき、美咲の左手首に細い銀色のブレスレットが光っているのに気づいた。熱気に包まれたキッチンでは場違いなほど繊細な装飾品。翔太が視線を向けると、美咲は少し照れくさそうに笑った。

  「これ? 母からもらった。『焦って自分を挫くな』って。私、よく突っ走るからさ」

   彼女の言葉が、翔太の胸に沁みた。厨房の熱よりも、ずっと深く。



---


 数週間後。翔太の手首は徐々に回復し、再び包丁を握れるようになった。最初は恐る恐る、だが美咲がそばで見守ってくれた。

  「力を入れすぎない。刃の重さで切るんだよ」

「はい……」

   教えられた通りに野菜を刻むと、刃の音が心地よく響いた。リズムが生まれるたびに、翔太の胸にも小さな自信が積み重なっていく。

   ある夜、営業後の片付けを終えた翔太に、宮本がぽつりと声をかけた。

「お前、少し顔つき変わったな」

「そうですか?」

「怪我して、ようやく周りを見る余裕が出てきたんだろ」

   図星だった。以前は自分のことで頭がいっぱいで、隣で戦う仲間の存在すら目に入っていなかったのだ。今は違う。あわただしいキッチンの中で、誰かの動きを聴き、呼吸を合わせられるようになった。

   ふと左手首を見ると、美咲のブレスレットの輝きが思い浮かんだ。焦りを挫かれ、痛みによって立ち止まったことで、ようやく翔太は本当の意味で「料理人の入口」に立ったのかもしれない。



---


 その夜、店を出ると、冷たい風が熱を奪っていった。だが翔太の胸の奥には、まだ火が残っていた。

 油のはじける音、鍋を振る音、そして美咲の笑顔。

 すべてが、これからの道を照らしている。


 翔太は手首をぎゅっと握りしめた。痛みはもうほとんどなかった。ただ、あのときの教訓は、ブレスレットのように静かに輝き続けていた。

連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。


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