「オフィスビル」「軌道」「歩む」
【軌道の先に】
窓の外には、灰色のビル群が整然と並んでいた。
オフィスビルの一室に身を置きながら、佐伯弘一は背筋を伸ばすことも忘れ、ただ無心にパソコンの画面を見つめていた。数字や文書がモニター上を行き交い、指先は機械のようにキーボードを叩いている。
かすかなタイピングの音。遠くのフロアではコピー機が低い唸りをあげている。
それらを包む蛍光灯の白い光は冷たく、夜の気配を完全に遮断していた。
ふと視線を逸らしたとき、壁の時計が目に入った。針はすでに午後十時を指している。
「またか……」
佐伯は小さくつぶやいた。声は虚しく吸い込まれる。
会社に入って十五年。係長という肩書きだけはもらったが、仕事への情熱はとっくに燃え尽きていた。案件をこなすことはできる。部下の尻拭いも、上司への報告も、慣れた動作で片づけられる。だが、そこに喜びはなかった。
日々はただ消化試合のように過ぎ、家には帰って寝るだけ。気づけば、妻と交わす言葉も減り、子どもの顔もろくに見ていない。
――俺は、いったいどこに向かって歩んでいるんだろう。
その問いは、もう何度胸をよぎったか知れない。だが、答えを考える前に、毎日は積み重なり、気づけば四十を越えていた。
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家に帰り着くのは、いつも深夜だった。
アパートの鍵を開けると、寝静まったリビングの空気が迎えてくる。食卓にはラップのかけられた皿があり、温め直す気力もなく、冷たいまま胃に流し込むのが常だった。
寝室に向かうと、妻の美穂と小学生の息子・直人が眠っている。
その背中に「ただいま」と声をかけることはない。小さな寝息を壊すのが怖くて、むしろ遠ざけるように身を潜めてきた。
ある夜、寝室のドアを開けたとき、美穂がうっすらと目を開けて言った。
「……いつまで、この生活を続けるつもりなの?」
声は淡々としていた。怒りでも嘆きでもなく、ただ冷たい水を浴びせるようだった。
佐伯は返事に詰まり、口を閉じた。結局「すぐ寝るよ」とだけつぶやき、布団に潜った。
背を向け合ったままの夜は、氷のように長かった。
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その日も、オフィスに残るのは佐伯ひとりだけになっていた。
書類を片づけていたとき、視界の端に奇妙な光が揺れた。
窓の外――漆黒の夜空に、細い軌道が弧を描いていたのだ。
流れ星、と呼ぶには長すぎる。まるで誰かが透明なチョークで空に線を引いているかのように、光はゆっくりと走っていく。
佐伯は思わず窓に近づいた。
その瞬間、耳の奥で声が響いた。
「まだ歩ける」
振り返っても、誰もいない。声は自分の中にだけ届いた。
胸の奥がざわついた。
軌道を描く光は、やがてビル群を越え、遠くの闇へと消えていく。
佐伯は、なぜかその先に“未来”がある気がしてならなかった。
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翌朝、佐伯は久しぶりに早く目を覚ました。
通勤電車の窓に映る自分は、相変わらずくたびれた中年男だ。それでも、心のどこかに小さな熱が残っていた。
昼休み、佐伯はスマホを開き、妻に短いメッセージを送った。
「今夜は少し早く帰る」
指が震えた。そんなことを伝えるのは、いったい何年ぶりだろう。
返信はすぐには来なかった。
だが、その夜、玄関を開けると、美穂が驚いたように目を見開いた。
「……本当に、早いのね」
その声に少しだけ柔らかさが宿っていた。
食卓には温かい味噌汁の匂いが漂っていた。直人もまだ起きていて、宿題を広げていた。
「おかえり、パパ」
その声は、いつのまにか忘れていた響きだった。
ぎこちなく「ただいま」と返しながら、佐伯は椅子に腰を下ろした。
箸を持つ手が震えていた。
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それからの日々、すぐに劇的に変わったわけではない。
残業を減らすと、同僚から皮肉を言われた。上司には嫌味を言われ、部下は戸惑った。
それでも佐伯は、意識して帰る時間を調整した。
休日には直人と公園に行き、サッカーボールを蹴った。汗をかく感覚すら久しぶりだった。
美穂と交わす会話も、少しずつ増えていった。最初は当たり障りのない言葉ばかりだったが、ある晩、美穂がぽつりとこぼした。
「やっと、戻ってきたみたいね」
その言葉に胸が熱くなった。
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ある夜、再び会社で遅くなったとき、佐伯は窓の外を見上げた。
軌道の光は、もう現れなかった。
けれども、それでよかった。あれは確かに、自分に向けられた合図だったのだ。
――まだ歩め、と。
佐伯は机に積まれた資料を閉じ、深く息をついた。
人生の軌道は、自分で描いていくものだ。
そう気づいたとき、重たい鎖が少しだけ外れるのを感じた。
ビルの出口を出ると、夜風が心地よく吹き抜けた。
空には軌道はなかったが、街の灯りが幾筋もの道を照らしていた。
佐伯は一歩を踏み出す。
その歩みは、かつての惰性の歩調ではなく、確かに未来へと続いていた。
連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。
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