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三題噺  作者:
2025年9月

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30/50

「夜の砂漠」「花束」「眠る」

【砂漠に眠る花】


 夜の砂漠は、昼間の猛暑が嘘のように冷え込んでいた。

 月明かりが白銀の砂丘を照らし、空には無数の星々が瞬いている。地平線の彼方まで何もなく、ただ風が砂をさらう音だけが響く。


 青年・リサームは、背中の革袋を直しながら砂を踏みしめていた。手には布で包まれた小さな花束が握られている。乾いた砂の世界には不似合いな、生の花の束だ。


 「……もうすぐだ」

 彼は小さくつぶやいた。


 花束は、彼の故郷であるオアシスの村から持ち出したものだった。花を摘んだのは、亡き恋人ナディアの墓前からだった。彼女の最後の願いを果たすために。



---


 数年前、まだ若き兵士だったリサームは、国境沿いの小さな戦いでナディアを失った。村に戻ったとき、彼女はもう冷たい石の下に眠っていた。

 ただひとつ残されていたのが、彼女が生前に育てていた花畑だった。砂漠では珍しい、淡い青色の小花。


 墓前で泣き崩れたとき、耳元で声がした気がした。

 ——「砂漠の果てに、眠れる庭があるの。そこに花を届けて」


 それが幻聴か、ナディアの魂の囁きだったのかは分からない。だがリサームは、その言葉を信じ、花束を抱えて旅立ったのだ。



---


 幾日も砂の海を歩き、夜には星明かりを頼りに進んだ。昼間は焦げるような太陽に晒され、革袋の水は残り少なくなっていった。

 歩きながら、彼はしばしば幻を見る。ナディアが笑って隣を歩いているように感じるのだ。


 「ねえ、リサーム。覚えてる? 子どものころ、校庭で歌った民謡」

 「……ああ、覚えてるさ」

 「あなた、声が低くて変だったわ」

 「ひどいな」

 空へ謡うように、彼は小声で歌を口ずさむ。砂漠はその声を呑み込み、星々が瞬きで応える。



---


 ある夜、疲れ果てて砂丘に腰を下ろしたとき、彼はついに立てなくなった。

 花束を胸に抱えたまま、星空を見上げる。


 「ナディア……もう少しなのに」

 まぶたが重くなり、意識が遠のく。

 彼は砂の上に横たわり、眠りに落ちた。



---


 夢の中で、砂漠は花畑に変わっていた。

 果てしない青い小花の野原。そこをナディアが裸足で駆けてくる。

 「よく来てくれたね」

 彼女の声は、確かに耳に届いた。


 リサームは花束を差し出した。

 「君に届けに来た」

 ナディアは微笑み、花束を抱きしめる。


 「ありがとう。でもね、これは私のためだけじゃないの。この花を、砂漠に眠る人たちへ捧げてほしいの」


 リサームは目を覚ました。

 まだ砂漠の真ん中、夜明け前の冷たい風が頬を打っている。夢だったのか。だが、胸に抱いた花束は、昨日よりも鮮やかに咲き誇っているように見えた。


 ——ナディアが言った。「砂漠に眠る人たちへ」


 それが何を意味するのか、リサームには分からなかった。だが歩き続けなければならないことだけは分かった。



---


 幾つ目かの砂丘を越えたとき、彼の前に奇妙な光景が広がった。

 砂の海に囲まれて、小さな石造りの門が立っていたのだ。廃墟のようだが、門の奥には緑が覗いている。


 「……庭?」

 足を進めると、門をくぐった先は、まるで別世界だった。


 そこには無数の花が咲き乱れていた。青い花、白い花、赤い花――砂漠の厳しさを忘れさせるほどの、鮮やかな庭園。水の気配はないのに、植物は生き生きと葉を広げ、夜明けの光を待っている。


 リサームは言葉を失った。これが「眠る庭」なのか。



---


 庭の中央には、古い石碑があった。砂に刻まれた無数の名前。戦や飢え、旅の途中で力尽きた者たちの墓標なのだろう。


 彼は胸の花束を見つめた。

 「……ここに、捧げろというのか」


 ナディアが育てた花を、亡き人々へ。

 彼女の願いは、愛した人ひとりのためではなく、この砂漠に消えたすべての魂のためだったのだ。


 リサームは花束を石碑の前に置き、両手を合わせた。

 風が吹き抜け、花びらが舞い上がる。その瞬間、砂漠に柔らかな歌声が響いた気がした。


 ——「ありがとう」


 それはナディアの声であり、同時に無数の亡き者の声だった。



---


 リサームはその場に膝をつき、深い安堵に包まれた。胸を締めつけていた痛みが少しずつほどけていく。

 そして、久しく味わったことのない静かな眠気が訪れる。


 「ここで眠っても……いいのかもしれないな」


 彼は石碑の前に身を横たえ、目を閉じた。冷たい砂が背中を支え、花の香りが鼻をかすめる。


 だが――そのとき、不意に温かな手が肩に触れた。

 「起きなさい、リサーム」


 まぶたを開けると、目の前には旅人風の老人が立っていた。砂色の外套をまとい、深い皺の刻まれた顔に穏やかな笑みを浮かべている。


 「ここは死者の眠る庭だ。おまえはまだ、その仲間入りをする時ではない」

 「でも……俺はもう……」

 「花を届けただろう? 役目は果たした。ならば、生きて帰って語れ。彼女の歌を、花を、語り継ぐ者になれ」



---


 老人の声はいつしか風と混じり合い、消えていった。

 リサームははっとして身を起こす。

 胸の奥に残っていた眠気は、不思議と消えていた。


 石碑の前に置いた花束は、すでに庭の土に溶け込むように馴染んでいる。まるで初めからそこに根を張っていたかのように。


 リサームは立ち上がり、深呼吸をした。

 東の空に、朝日が昇り始めていた。砂漠の冷気が少しずつ和らぎ、金色の光が庭を照らす。



---


 彼は再び歩き出した。

 帰る場所はまだある。オアシスの村も、仲間も。

 そして、自分の口で語り継ぐ物語がある。


 振り返ると、庭はもう蜃気楼のように揺らめき、砂漠に溶けていこうとしていた。だが石碑に眠る人々の歌声は、確かに風の中に残っていた。


 ——ナディア、聞こえるか。

 俺は生きる。おまえの花を抱えて、生きて語る。


 砂を踏みしめ、彼は太陽へ向かって歩き続けた。

連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。


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