「夜の砂漠」「花束」「眠る」
【砂漠に眠る花】
夜の砂漠は、昼間の猛暑が嘘のように冷え込んでいた。
月明かりが白銀の砂丘を照らし、空には無数の星々が瞬いている。地平線の彼方まで何もなく、ただ風が砂をさらう音だけが響く。
青年・リサームは、背中の革袋を直しながら砂を踏みしめていた。手には布で包まれた小さな花束が握られている。乾いた砂の世界には不似合いな、生の花の束だ。
「……もうすぐだ」
彼は小さくつぶやいた。
花束は、彼の故郷であるオアシスの村から持ち出したものだった。花を摘んだのは、亡き恋人ナディアの墓前からだった。彼女の最後の願いを果たすために。
---
数年前、まだ若き兵士だったリサームは、国境沿いの小さな戦いでナディアを失った。村に戻ったとき、彼女はもう冷たい石の下に眠っていた。
ただひとつ残されていたのが、彼女が生前に育てていた花畑だった。砂漠では珍しい、淡い青色の小花。
墓前で泣き崩れたとき、耳元で声がした気がした。
——「砂漠の果てに、眠れる庭があるの。そこに花を届けて」
それが幻聴か、ナディアの魂の囁きだったのかは分からない。だがリサームは、その言葉を信じ、花束を抱えて旅立ったのだ。
---
幾日も砂の海を歩き、夜には星明かりを頼りに進んだ。昼間は焦げるような太陽に晒され、革袋の水は残り少なくなっていった。
歩きながら、彼はしばしば幻を見る。ナディアが笑って隣を歩いているように感じるのだ。
「ねえ、リサーム。覚えてる? 子どものころ、校庭で歌った民謡」
「……ああ、覚えてるさ」
「あなた、声が低くて変だったわ」
「ひどいな」
空へ謡うように、彼は小声で歌を口ずさむ。砂漠はその声を呑み込み、星々が瞬きで応える。
---
ある夜、疲れ果てて砂丘に腰を下ろしたとき、彼はついに立てなくなった。
花束を胸に抱えたまま、星空を見上げる。
「ナディア……もう少しなのに」
まぶたが重くなり、意識が遠のく。
彼は砂の上に横たわり、眠りに落ちた。
---
夢の中で、砂漠は花畑に変わっていた。
果てしない青い小花の野原。そこをナディアが裸足で駆けてくる。
「よく来てくれたね」
彼女の声は、確かに耳に届いた。
リサームは花束を差し出した。
「君に届けに来た」
ナディアは微笑み、花束を抱きしめる。
「ありがとう。でもね、これは私のためだけじゃないの。この花を、砂漠に眠る人たちへ捧げてほしいの」
リサームは目を覚ました。
まだ砂漠の真ん中、夜明け前の冷たい風が頬を打っている。夢だったのか。だが、胸に抱いた花束は、昨日よりも鮮やかに咲き誇っているように見えた。
——ナディアが言った。「砂漠に眠る人たちへ」
それが何を意味するのか、リサームには分からなかった。だが歩き続けなければならないことだけは分かった。
---
幾つ目かの砂丘を越えたとき、彼の前に奇妙な光景が広がった。
砂の海に囲まれて、小さな石造りの門が立っていたのだ。廃墟のようだが、門の奥には緑が覗いている。
「……庭?」
足を進めると、門をくぐった先は、まるで別世界だった。
そこには無数の花が咲き乱れていた。青い花、白い花、赤い花――砂漠の厳しさを忘れさせるほどの、鮮やかな庭園。水の気配はないのに、植物は生き生きと葉を広げ、夜明けの光を待っている。
リサームは言葉を失った。これが「眠る庭」なのか。
---
庭の中央には、古い石碑があった。砂に刻まれた無数の名前。戦や飢え、旅の途中で力尽きた者たちの墓標なのだろう。
彼は胸の花束を見つめた。
「……ここに、捧げろというのか」
ナディアが育てた花を、亡き人々へ。
彼女の願いは、愛した人ひとりのためではなく、この砂漠に消えたすべての魂のためだったのだ。
リサームは花束を石碑の前に置き、両手を合わせた。
風が吹き抜け、花びらが舞い上がる。その瞬間、砂漠に柔らかな歌声が響いた気がした。
——「ありがとう」
それはナディアの声であり、同時に無数の亡き者の声だった。
---
リサームはその場に膝をつき、深い安堵に包まれた。胸を締めつけていた痛みが少しずつほどけていく。
そして、久しく味わったことのない静かな眠気が訪れる。
「ここで眠っても……いいのかもしれないな」
彼は石碑の前に身を横たえ、目を閉じた。冷たい砂が背中を支え、花の香りが鼻をかすめる。
だが――そのとき、不意に温かな手が肩に触れた。
「起きなさい、リサーム」
まぶたを開けると、目の前には旅人風の老人が立っていた。砂色の外套をまとい、深い皺の刻まれた顔に穏やかな笑みを浮かべている。
「ここは死者の眠る庭だ。おまえはまだ、その仲間入りをする時ではない」
「でも……俺はもう……」
「花を届けただろう? 役目は果たした。ならば、生きて帰って語れ。彼女の歌を、花を、語り継ぐ者になれ」
---
老人の声はいつしか風と混じり合い、消えていった。
リサームははっとして身を起こす。
胸の奥に残っていた眠気は、不思議と消えていた。
石碑の前に置いた花束は、すでに庭の土に溶け込むように馴染んでいる。まるで初めからそこに根を張っていたかのように。
リサームは立ち上がり、深呼吸をした。
東の空に、朝日が昇り始めていた。砂漠の冷気が少しずつ和らぎ、金色の光が庭を照らす。
---
彼は再び歩き出した。
帰る場所はまだある。オアシスの村も、仲間も。
そして、自分の口で語り継ぐ物語がある。
振り返ると、庭はもう蜃気楼のように揺らめき、砂漠に溶けていこうとしていた。だが石碑に眠る人々の歌声は、確かに風の中に残っていた。
——ナディア、聞こえるか。
俺は生きる。おまえの花を抱えて、生きて語る。
砂を踏みしめ、彼は太陽へ向かって歩き続けた。
連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。
感想や評価お待ちしています。




