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三題噺  作者:
2025年9月

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28/50

「キッチン」「ジャケット」「効く」

【効き目のある一着】


 昼どきのレストランのキッチンは、戦場だった。

 フライパンの油が弾け、オーブンのタイマーが鳴り、シェフの怒声が飛び交う。


「はい次、カルボナーラ二つ! ステーキは焼き加減ミディアムだぞ!」


 ステンレスの調理台は汗と湯気で曇り、狭い厨房を縦横にスタッフが行き来する。

 その中で一人だけ、動きがぎこちない若者がいた。


 名前は 高橋悠斗。二十五歳。料理学校を出て三年目だが、いまだ一人前とは言えなかった。


 包丁を握る手はいつもどこかぎこちなく、皿を持てばぶつけて音を立てる。今日もまた、サラダ用のレタスをちぎるのに時間をかけすぎて、隣の先輩に怒鳴られた。


「悠斗! お前、もっと手を早く動かせ! そのままじゃ注文が溜まるだろ!」

「す、すみません!」


 謝る声は油のはぜる音にかき消された。


 そんな彼が唯一誇れるものがあった。


 父の形見の 紺色のジャケット だ。

 父は地元で小さな洋食屋を営んでいたが、悠斗が高校生の頃に急逝した。写真の中の父は、いつも厨房の奥でそのジャケットを羽織り、にこやかに客を迎えていた。


 大人になった悠斗はそれを譲り受け、勝負の日にだけ着ることにしていた。面接の日、初めて厨房に立った日、大事な料理コンクールの日。ジャケットを羽織ると、不思議と胸の奥に火が灯る気がした。


「着ると効くんだよな、これ……」


 同僚には冗談めかしてそう言ったが、内心は真剣だった。父の背中を少しでも追えるような気がしたのだ。


 ある夜、閉店後のまかないを食べながら、悠斗はふと口を開いた。

「僕、やっぱり父さんみたいな店をやりたいんです」


 先輩たちは一瞬顔を見合わせ、すぐ笑った。

「夢見るのは勝手だけどな、悠斗。お前じゃ十年経っても無理だ」

「だって、いまだにサラダもまともに盛り付けられないだろ」


 言葉はきつかったが、嘘ではなかった。悠斗も分かっている。

 ただ――諦められなかった。


 転機は突然訪れた。


 日曜日の昼時、シェフが急な体調不良で倒れたのだ。救急車で搬送され、厨房は大混乱になった。


「どうするんだ! 予約は満席だぞ!」

「代わりにメイン作れるやつは!?」


 ベテランの先輩も、急な指揮はとれない。場の空気が凍りつく中、悠斗は震える手でロッカーを開けた。


 そこにあるのは、父のジャケット。

 袖を通した瞬間、胸の奥に熱が広がった。


「……僕、やります」


 スタッフが驚いて振り向く。

「お前にできるのか?」

「やるしかありません!」


 声が裏返った。だが迷っている暇はなかった。


 あわただしいキッチンの中、悠斗はフライパンを握った。


 肉を焼く音が耳を打つ。香ばしい匂いが立ち上る。動悸が速すぎて、手元が狂いそうになる。

 だが、不思議とジャケットの袖が背中を押した。


「焦るな……火加減は父さんに教わった通り……」


 記憶の奥に、亡き父の声が蘇る。小さな店の狭い厨房、笑いながらフライパンを振る父の姿。

 その声に導かれるように、手が自然に動いた。


 ソースを仕上げ、皿に盛り付ける。

「はい、ステーキ二丁!」


 スタッフが息を呑み、皿をホールへ運ぶ。


 数分後――。

 客席から「美味しい!」という声が上がった。


 悠斗は思わず目を伏せ、拳を握った。効いたのだ、このジャケットが。


 その日、営業を終えた後。

 店長代理が彼に近づいた。

「高橋。今日はよくやったな」

「い、いえ……僕なんかまだ……」

「いや、お前の料理が客を救った。シェフも安心するだろう」


 初めての称賛に、悠斗の胸が熱くなった。


 父のジャケットは、確かに効いた。

 だが同時に、自分の中にも眠っていた力があることを知った。



---


 それから数年後。


 悠斗は小さな洋食屋を開いた。店名は「レストラン・タカハシ」。

 開店初日の朝、鏡の前でジャケットを羽織る。少し色あせ、袖もほつれかけている。


「……今日も効いてくれよ、父さん」


 そうつぶやき、暖簾を出した。


 昼になると、客がぞろぞろと入ってきた。狭い店内はすぐ満席になり、キッチンは再びあわただしくなった。

 だが、もう怖くはなかった。父から受け継いだジャケットと、あの日の自分の勇気があれば、十分だった。


 悠斗は鍋を振りながら笑った。

「効いてるな……まだまだ、効いてる!」

連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。


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