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三題噺  作者:
2025年9月

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27/50

「ラーメン」「煎餅布団」「擦る」

【夜鳴き布団】


 夜風が冷たくなり始めた十月の終わり。商店街の片隅にある小さなラーメン屋「まるよし」は、今日も赤提灯を灯していた。

 のれんをくぐると、煮干しと醤油の香りが鼻をくすぐる。湯気をまとったカウンターの奥では、頑固親父と呼ばれる店主・吉田栄三が、寸胴を木べらで擦るようにかき混ぜていた。


「へい、いらっしゃい」

 掠れた声に迎えられたのは、若いサラリーマン風の青年だった。ネクタイを緩め、背広の肩に細かな雨粒を残している。

「ラーメンひとつ、お願いします」


 吉田は無言で頷き、麺を茹で始める。厨房に響くザルを擦る音が、夜の静けさを破る。

 青年はカウンターの椅子に腰を下ろすと、ぐったりと肩を落とした。


「お疲れさんか」

 栄三が湯気越しに声をかける。

「……ええ、まあ」

「働き盛りはみんなそんな顔してる。だが、ラーメン食えば少しはマシになる」


 差し出された丼から立ちのぼる香りに、青年の目が少し潤んだ。

 一口すすると、表情がほどけていく。

「……うまいですね」

「そりゃよかった」


 栄三は照れ隠しのように布巾でカウンターを擦る。その仕草に、年季の入った木の色が浮き上がった。


 食べ終えた青年は財布を開こうとして、ふと顔を曇らせた。

「……すみません。小銭が足りなくて……」

「いいさ、ツケで」

「でも……」

「食ったもんの代わりは出せねぇ。今度払えばいい」


 青年は深く頭を下げ、店を後にした。



---


 その夜、店を閉めたあと。栄三は狭い二階の住居に戻った。

 古びた六畳間の中央には、煎餅布団が敷かれている。薄くて硬い、長年使い込んだ布団。寝返りを打つたびに軋み、背中が痛くなる代物だ。


 横になりながら、彼はさっきの青年の顔を思い出していた。

 疲れ切っていたが、どこか真っ直ぐな目をしていた。

 かつての自分も、あんなふうに都会に揉まれていたのかもしれない――。


 布団を擦る音に包まれながら、栄三はいつの間にか眠りに落ちていた。



---


 数日後。

 またあの青年が店に現れた。

「この間のツケ、払います」

 封筒を差し出す。

「多いな」

「お詫びです。……それと、できればまたラーメンを」


 その夜も、青年はラーメンを平らげた。

 そしてふと口を開く。

「僕、夢があるんです。いつか自分の店を持ちたくて」

「店?」

「はい。小さいけれど、人が集まる場所を……」


 言葉を濁したが、その目は確かに輝いていた。


「なら、腹いっぱい食って、力つけなきゃな」

 栄三は寸胴を擦りながら、思わず笑った。



---



 青年は佐伯翔太と名乗った。二十代半ば、東京の片隅で広告代理店に勤めているが、心のどこかで今の暮らしに行き詰まりを感じているらしい。


 それから翔太は、週に二度、三度と「まるよし」に通うようになった。

 栄三は多くを聞かなかった。だが翔太はラーメンを啜りながら、ぽつりぽつりと胸の内をこぼすようになった。


「仕事はきついけど、嫌いじゃないんです。ただ……毎日数字を追ってると、自分が何をしてるのかわからなくなる」

「ふん、誰だってそうだ。俺だって昔は工場で働いてた。夜中まで機械の油で手を真っ黒にしてな」


 栄三はレンゲを擦るように洗いながら、懐かしむように語る。

「だがな、あるとき気づいた。腹が減ったやつに、温かい一杯出すほうが、俺の性に合ってるってな」

 翔太は箸を止め、じっとその背中を見つめていた。



---


 年が明けるころ、翔太は久しぶりに大きな紙袋を抱えてきた。

「これ、たいしたもんじゃないんですけど……」

 差し出されたのは、新しい布団だった。


「え?」

「いつも話を聞いてもらってるお礼です。前に言ってましたよね、煎餅布団で腰が痛いって」


 栄三は言葉を失った。

 長年使っていた布団は、寝返りのたびに擦れる音を立てるほど薄っぺらで、正直限界だった。

「馬鹿野郎、こんな高いもん……」

「安物です。それに、僕も店主さんみたいに、自分の店を持てたらなって思うんです。そのための縁……いや、練習みたいな」


 翔太は照れ笑いを浮かべた。


 栄三はしばらく黙っていたが、やがて大きく息をつき、袋を受け取った。

「ありがとな。……けど、客に気を遣わせるラーメン屋なんざ、聞いたことねぇ」

「僕は、客っていうより……弟子みたいな気分なんです」


 その言葉に、栄三の胸に小さな火が灯った。



---


 それからしばらく、翔太は店を手伝うようになった。

 カウンターを擦り、食器を洗い、注文を取る。

「もっと腰を落とせ! ザルを擦るな、揺らすんだ!」

 栄三の叱咤に汗を流しながら、翔太は必死に覚えた。


 仕事帰りのわずかな時間だったが、翔太の顔は以前より明るくなった。

 彼は言った。

「ラーメンを作るのって、広告よりもずっとストレートですね。うまいかまずいか、それだけ。ごまかしがきかない」

「そのかわり、正直だ。美味けりゃ笑う。まずけりゃ二度と来ねぇ」


 二人は夜遅くまで語り合った。



---


 春が来る頃、翔太は会社を辞めた。

「本気で店をやりたいんです」

 そう告げに来たとき、栄三はただ一言だけ言った。

「そうか」


 だがその夜、栄三は煎餅布団の上で寝返りを打ちながら、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じていた。

 若い頃、無謀に思えた自分の決断を思い出していた。

 翔太はその姿を重ねていたのだろうか。



---


 それから数か月後。

 翔太は遠く離れた駅前に、小さな店を構えた。

 オープンの日、のれんをくぐると、栄三が一番乗りで来ていた。

「へい、ラーメン一丁!」

 翔太は緊張で手を擦りながら、それでも嬉しそうに厨房へ駆けていった。


 出された一杯は、まだ未熟だった。スープは少し薄く、麺も茹で加減が甘い。

 だが栄三は無言で食べ終え、丼を置いた。

「……うまかった」

 翔太の目がにじんだ。


「これから、もっと擦ってみろ。何度でも。そうすりゃ味も、店も、人も磨かれる」

「はい!」


 翔太の声は、湯気に混じってまっすぐ響いた。



---


 数年後。

 栄三はすっかり新しい布団になじみ、腰の痛みも減った。

 だが時折、押し入れにしまってある古い煎餅布団を取り出しては、そっと擦ってみる。

 すると、あの若者と過ごした夜、カウンター越しの会話、寸胴をかき混ぜる音が蘇るのだ。


 人は布団のようにすり減っていく。だが、そこに誰かとの温もりが染みつけば、ただの古布団じゃない。

 栄三はそんなことを思いながら、またのれんを出す。


 今日もどこかで、腹を空かせた誰かがやって来る。

 その誰かの人生が、ほんの少しでも温まるように――。

連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。


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