「ラーメン」「煎餅布団」「擦る」
【夜鳴き布団】
夜風が冷たくなり始めた十月の終わり。商店街の片隅にある小さなラーメン屋「まるよし」は、今日も赤提灯を灯していた。
のれんをくぐると、煮干しと醤油の香りが鼻をくすぐる。湯気をまとったカウンターの奥では、頑固親父と呼ばれる店主・吉田栄三が、寸胴を木べらで擦るようにかき混ぜていた。
「へい、いらっしゃい」
掠れた声に迎えられたのは、若いサラリーマン風の青年だった。ネクタイを緩め、背広の肩に細かな雨粒を残している。
「ラーメンひとつ、お願いします」
吉田は無言で頷き、麺を茹で始める。厨房に響くザルを擦る音が、夜の静けさを破る。
青年はカウンターの椅子に腰を下ろすと、ぐったりと肩を落とした。
「お疲れさんか」
栄三が湯気越しに声をかける。
「……ええ、まあ」
「働き盛りはみんなそんな顔してる。だが、ラーメン食えば少しはマシになる」
差し出された丼から立ちのぼる香りに、青年の目が少し潤んだ。
一口すすると、表情がほどけていく。
「……うまいですね」
「そりゃよかった」
栄三は照れ隠しのように布巾でカウンターを擦る。その仕草に、年季の入った木の色が浮き上がった。
食べ終えた青年は財布を開こうとして、ふと顔を曇らせた。
「……すみません。小銭が足りなくて……」
「いいさ、ツケで」
「でも……」
「食ったもんの代わりは出せねぇ。今度払えばいい」
青年は深く頭を下げ、店を後にした。
---
その夜、店を閉めたあと。栄三は狭い二階の住居に戻った。
古びた六畳間の中央には、煎餅布団が敷かれている。薄くて硬い、長年使い込んだ布団。寝返りを打つたびに軋み、背中が痛くなる代物だ。
横になりながら、彼はさっきの青年の顔を思い出していた。
疲れ切っていたが、どこか真っ直ぐな目をしていた。
かつての自分も、あんなふうに都会に揉まれていたのかもしれない――。
布団を擦る音に包まれながら、栄三はいつの間にか眠りに落ちていた。
---
数日後。
またあの青年が店に現れた。
「この間のツケ、払います」
封筒を差し出す。
「多いな」
「お詫びです。……それと、できればまたラーメンを」
その夜も、青年はラーメンを平らげた。
そしてふと口を開く。
「僕、夢があるんです。いつか自分の店を持ちたくて」
「店?」
「はい。小さいけれど、人が集まる場所を……」
言葉を濁したが、その目は確かに輝いていた。
「なら、腹いっぱい食って、力つけなきゃな」
栄三は寸胴を擦りながら、思わず笑った。
---
青年は佐伯翔太と名乗った。二十代半ば、東京の片隅で広告代理店に勤めているが、心のどこかで今の暮らしに行き詰まりを感じているらしい。
それから翔太は、週に二度、三度と「まるよし」に通うようになった。
栄三は多くを聞かなかった。だが翔太はラーメンを啜りながら、ぽつりぽつりと胸の内をこぼすようになった。
「仕事はきついけど、嫌いじゃないんです。ただ……毎日数字を追ってると、自分が何をしてるのかわからなくなる」
「ふん、誰だってそうだ。俺だって昔は工場で働いてた。夜中まで機械の油で手を真っ黒にしてな」
栄三はレンゲを擦るように洗いながら、懐かしむように語る。
「だがな、あるとき気づいた。腹が減ったやつに、温かい一杯出すほうが、俺の性に合ってるってな」
翔太は箸を止め、じっとその背中を見つめていた。
---
年が明けるころ、翔太は久しぶりに大きな紙袋を抱えてきた。
「これ、たいしたもんじゃないんですけど……」
差し出されたのは、新しい布団だった。
「え?」
「いつも話を聞いてもらってるお礼です。前に言ってましたよね、煎餅布団で腰が痛いって」
栄三は言葉を失った。
長年使っていた布団は、寝返りのたびに擦れる音を立てるほど薄っぺらで、正直限界だった。
「馬鹿野郎、こんな高いもん……」
「安物です。それに、僕も店主さんみたいに、自分の店を持てたらなって思うんです。そのための縁……いや、練習みたいな」
翔太は照れ笑いを浮かべた。
栄三はしばらく黙っていたが、やがて大きく息をつき、袋を受け取った。
「ありがとな。……けど、客に気を遣わせるラーメン屋なんざ、聞いたことねぇ」
「僕は、客っていうより……弟子みたいな気分なんです」
その言葉に、栄三の胸に小さな火が灯った。
---
それからしばらく、翔太は店を手伝うようになった。
カウンターを擦り、食器を洗い、注文を取る。
「もっと腰を落とせ! ザルを擦るな、揺らすんだ!」
栄三の叱咤に汗を流しながら、翔太は必死に覚えた。
仕事帰りのわずかな時間だったが、翔太の顔は以前より明るくなった。
彼は言った。
「ラーメンを作るのって、広告よりもずっとストレートですね。うまいかまずいか、それだけ。ごまかしがきかない」
「そのかわり、正直だ。美味けりゃ笑う。まずけりゃ二度と来ねぇ」
二人は夜遅くまで語り合った。
---
春が来る頃、翔太は会社を辞めた。
「本気で店をやりたいんです」
そう告げに来たとき、栄三はただ一言だけ言った。
「そうか」
だがその夜、栄三は煎餅布団の上で寝返りを打ちながら、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じていた。
若い頃、無謀に思えた自分の決断を思い出していた。
翔太はその姿を重ねていたのだろうか。
---
それから数か月後。
翔太は遠く離れた駅前に、小さな店を構えた。
オープンの日、のれんをくぐると、栄三が一番乗りで来ていた。
「へい、ラーメン一丁!」
翔太は緊張で手を擦りながら、それでも嬉しそうに厨房へ駆けていった。
出された一杯は、まだ未熟だった。スープは少し薄く、麺も茹で加減が甘い。
だが栄三は無言で食べ終え、丼を置いた。
「……うまかった」
翔太の目がにじんだ。
「これから、もっと擦ってみろ。何度でも。そうすりゃ味も、店も、人も磨かれる」
「はい!」
翔太の声は、湯気に混じってまっすぐ響いた。
---
数年後。
栄三はすっかり新しい布団になじみ、腰の痛みも減った。
だが時折、押し入れにしまってある古い煎餅布団を取り出しては、そっと擦ってみる。
すると、あの若者と過ごした夜、カウンター越しの会話、寸胴をかき混ぜる音が蘇るのだ。
人は布団のようにすり減っていく。だが、そこに誰かとの温もりが染みつけば、ただの古布団じゃない。
栄三はそんなことを思いながら、またのれんを出す。
今日もどこかで、腹を空かせた誰かがやって来る。
その誰かの人生が、ほんの少しでも温まるように――。
連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。
感想や評価お待ちしています。




