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三題噺  作者:
2025年9月

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26/50

「映画館」「キーボード」「読む」

【暗闇のキーボード】


 雨粒が傘の骨を叩く音がやまない。

 駅前の古びた映画館「銀星シネマ」にたどり着いたとき、時計の針はもう上映開始十分前を指していた。


 小さな劇場。大手シネコンに押され、客入りはいつもまばらだ。けれど、ここには他にはない落ち着きがある。暗闇の中で、心臓の鼓動と一緒にスクリーンの光を受け止める――そんな時間が好きだった。


 受付でチケットをもぎってもらうと、どこか懐かしいバターの香りが漂ってくる。高校生くらいのアルバイトが、眠そうにポップコーンを袋に詰めていた。


 上映まで時間がある。僕――村瀬悠人はロビーの片隅にあるテーブル席に腰を下ろした。

 カバンからノートパソコンを取り出す。冷え切った指先でキーボードを叩くと、画面に文字が浮かんでいく。


 いま書いているのは、映画評だ。といっても、雑誌に載せるような立派なものではない。個人ブログにアップしているだけ。それでも、文章を「読む」誰かがいて、感想をくれるのが心の支えだった。


 タイピングの合間に、ふと隣のテーブルに目をやる。

 そこには、分厚い本を開いている女性がいた。

 長い前髪の奥から覗く瞳は真剣で、ページを繰るたびに小さく瞬きする。その集中力は、周りのざわめきなど存在しないかのようだった。


 彼女の前には飲みかけのホットコーヒー。カップの口紅の跡が、鮮やかに残っている。


 ――本を読む人を眺めるのは、映画館で映画を見るのと同じだな。

 そんなふうに思って、僕は視線を戻した。


 けれど、数分後、彼女が声をかけてきた。

「すみません、それ……映画のレビューを書いてるんですか?」


 ドキリとした。画面を覗かれたらしい。

「え、あ、まあ……。たいしたものじゃないですけど」

「ちょっと見せてもらってもいいですか?」

「……え?」


 戸惑いながらも、彼女の視線は真っ直ぐだ。断れない雰囲気に押され、画面を傾けた。


 文字の羅列を追いながら、彼女は小さくうなずく。

「うん、やっぱり。ネットで読んだことがある文章です。『暗闇のキーボード』って名前で書いてますよね」


 そのペンネームを口にされた瞬間、心臓が跳ねた。

 まさかこんな場所で、自分の文章を知っている人に出会うなんて。


「読んでくれてたんですか?」

「はい。映画が好きで検索してたら見つけて……。派手じゃないけど、静かに寄り添ってくれる文章だなって思って」


 言葉が詰まった。褒められたことより、読者が実在して目の前にいるという事実に圧倒される。


「……ありがとうございます」

 やっとそれだけを絞り出した。


 彼女は笑みを浮かべ、本を閉じた。表紙には「映画脚本の基礎」と書かれていた。

「わたし、脚本家を目指してるんです。だから、いろんな映画の感想を読むのが勉強になるんです」


 映画館のロビーという偶然の場で、僕と彼女は出会った。

 名を、彼女は川口美沙と名乗った。


 上映開始のチャイムが鳴る。

 二人で並んでシアターに入った。



---



 館内は、ほどよく冷えた空気とわずかな湿り気が混じっていた。古いシートは少し軋むけれど、その軋みさえ映画館の記憶の一部のように感じられる。


 スクリーンに光が灯ると、ざわついていた観客たちも静まり返った。

 予告編が流れ、やがて本編が始まる。


 横に座る美沙は、最初から最後まで微動だにしなかった。物音ひとつ立てず、食い入るように映像を見つめている。スクリーンの光に照らされる横顔は、まるで映画の登場人物のひとりのように真剣だった。


 僕はといえば、映画そのものよりも、彼女の観る姿に目を奪われていた。

 ――読む人を読むように、映画を読む。

 そんな感覚だった。


 エンドロールが流れ出す。観客たちは席を立ち始めたが、美沙は最後の一文字までスクリーンを見届けていた。

 そしてようやく立ち上がると、振り返って僕に微笑んだ。

「どうでした?」

「よかったです。映像も、音楽も、静かなのに胸に残る」

「わたしも。脚本も上手い。伏線の回収が丁寧で……」


 映画について語り合うと、言葉が止まらなくなった。ロビーを出て、近くのファミレスに入り、テーブルに並んだドリンクバーのカップを前にしても会話は続いた。


 僕がキーボードを叩いて書き残してきた文章は、ただの独り言の延長だった。

 けれど、それを「読む」人がいて、目の前で「共感しました」と言ってくれる。

 そのことが信じられないほど嬉しかった。


「ねえ」

 と、美沙が少し身を乗り出す。

「もしよければ、これから上映を一緒に観ませんか? 同じ映画を観て、感想を交換できたら面白そう」


 胸の奥が熱くなる。

「……いいんですか?」

「もちろん。わたし、脚本の勉強になるし。悠人さんは、文章のネタにもなるでしょ?」


 それから僕たちは、何度も銀星シネマに通った。

 観る作品はマイナーで、人によっては退屈と切り捨てられるものばかりだった。けれど、美沙と一緒に語り合うと、どんな作品も輝きを持った。


 ある日、彼女はノートを取り出して言った。

「実は、オリジナルの脚本を書いてるんです。まだ未完成だけど、読んでみますか?」

 ページをめくると、活字の代わりに走り書きの台詞やト書きが並んでいた。拙い部分もあるが、そこには確かに彼女の熱が宿っていた。


 僕は夜遅くまで読み、赤ペンを片手に感想を書き込んだ。

 その姿を見て、美沙は笑っていた。

「ほんとに、読むのが好きなんですね」

「読むのが好きっていうか、誰かの言葉に出会うのが好きなんです」


 言ってから、自分でも照れくさくなった。



---


 やがて、銀星シネマに閉館の噂が流れ始めた。

 土地の再開発で取り壊されるのだという。


 最後の上映会の日、館内は満員だった。

 けれど僕と美沙は、いつもの席に並んで座った。


 上映が終わり、館内の明かりがついたとき、美沙がぽつりとつぶやいた。

「わたし、東京に行こうと思います。映画の学校に入って、本格的に脚本を学びたいんです」


 胸がぎゅっと締めつけられた。

 でも同時に、迷いのない瞳を見て、応援したいという気持ちが勝った。


「いいと思う。絶対に行くべきだよ」

 声が少し震えた。


 美沙は少し考えてから、僕に一冊のノートを差し出した。

「これ……最初に書いた脚本。悠人さんにだけ渡したいんです。だって、わたしの文章を最初に“読む”のは、あなたであってほしいから」


 手渡された瞬間、僕は強く握りしめた。

 キーボードの上でカタカタと音を立ててきた日々は、このためにあったのかもしれない。



---


 数年後。

 僕は相変わらず、細々と映画評をブログに書き続けている。

 けれど「暗闇のキーボード」という名前は、今では少し違う意味を持っていた。


 テレビの画面に、若き脚本家・川口美沙のインタビューが映っている。新作映画は国内外で高い評価を得ていた。


 彼女の作品をスクリーンで観るたびに、あの日、銀星シネマで隣に座っていた横顔を思い出す。

 そして、あのノートを開く。

 消えかけたインクの走り書き。未熟だけど熱を帯びた言葉。


 ――読むことは、誰かと生きることだ。


 キーボードを叩く指が止まらない。

 閉館した映画館の記憶を胸に、僕は今も文章を紡ぎ続けている。

連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。


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