表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三題噺  作者:
2025年8月

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/50

「船室」「オーブントースター」「殴る」

【波間のトースト】


 湿った潮の匂いが、船室の隅々にまで染み込んでいた。夜明け前、甲板を叩く波の音が、眠りを浅くした。僕――新米船員の村上翔太は、寝台の上で目を開け、天井の薄汚れた鉄板を見つめた。

 ここに乗り込んでから三週間。貨物船〈あかつき丸〉の生活にも、ようやく慣れ始めたところだ。慣れたといっても、豪華客船とは違い、狭い船室で共同生活を送り、汗と油と海水の匂いに包まれる毎日だ。


 そんな中で唯一の楽しみは、船員用の小さな食堂に置かれた――なぜか場違いな――オーブントースターだった。


 古びていて、ダイヤルは擦れて目盛りが読めず、タイマーの音も頼りない。それでも朝にパンを突っ込んで焼けば、香ばしい匂いが船室全体に広がり、潮の匂いを一瞬だけ忘れさせてくれる。パンにマーガリンを塗り、カリッと音を立てて噛む。その瞬間、僕は「まだ生きている」と実感できた。


 ――けれど、その小さな楽しみすらも、今日で壊れてしまうかもしれない。


---


 「おい、新米。お前、また勝手にトースター使ったろ」


 そう言って船室のドアを蹴り開けてきたのは、先輩船員の矢野だった。四十代半ば、筋肉の塊のような体に、常にしかめっ面を貼り付けている男だ。僕は慌てて寝台から身を起こした。


 「ち、違いますよ。昨日の朝しか……」

 「うそつけ。この匂い、残ってんだろ。マーガリンの匂いってのはしつこいんだ」


 矢野の嗅覚は妙に鋭い。僕は言い訳しようとしたが、彼は一歩詰め寄り、僕の胸ぐらを掴んだ。


 「何度言わせんだ。あのトースターは“俺専用”だってな」

 「そ、そんなルール、聞いてません」

 「ルールじゃねえ、“常識”だ」


 そして――ドン、と僕の肩を殴った。拳が硬く、体が壁に叩きつけられた。


 「ぐっ……」

 「次、勝手に使ったら海に放り込むぞ」


 矢野はそれだけ言い残し、乱暴にドアを閉めて去っていった。


 残された僕は、胸の痛みよりも、胃の底に広がる怒りと悔しさで震えていた。


---


 矢野がこの船の中で幅を利かせているのは誰もが知っていた。長年勤め、船長にも気に入られている。彼に逆らう者はおらず、僕のような新米はただ黙って耐えるしかなかった。


 でも――。

 「たかがオーブントースターで……」


 そう呟いたとき、ふと頭に浮かんだ。

 ――いや、されどトースターだ。


 この船においては、陸地のようにコンビニもカフェもなく、贅沢なんて存在しない。だからこそ、あのトースターは皆にとって、ちょっとした“文明”であり、心の支えであるはずだ。矢野に独占されていいはずがない。


 僕は決意した。

 取り返してやる。あのトースターを、皆のもとに。


---


 翌日の朝食時、僕は仲間にそれとなく聞いてみた。

 「なあ、矢野さんって、トースター独り占めしてますよね」


 周囲の船員たちは目をそらし、気まずそうにパンを噛んだ。ひとりが小声で言った。

 「……まあ、そうだな。でも逆らわないほうがいい。前に文句言ったやつ、甲板で本当に殴られて歯を折った」

 「そんな……」


 結局、みんな恐れているだけだった。ならば僕がやるしかない。新米だからこそ、失うものも少ない。


---


 夜。波の音が激しく船室を揺らしていた。矢野は酒をあおり、食堂で豪快に笑っていた。テーブルには焼き上がったトーストが積まれている。


 僕はそっと食堂に入った。

 「矢野さん」

 「ん? おう、新米。何だ」

 「そのトースター、皆で使うべきだと思います」


 一瞬、静まり返った。矢野の目が鋭く光った。

 「お前……また俺に歯向かうのか」

 「俺だけじゃない。皆だってそう思ってます。言わないだけで」


 矢野は立ち上がり、拳を握った。船室の蛍光灯がちらつき、波が窓を叩く。

 「だったら証明してみろ。俺を殴り倒してみろよ」


 挑発に、僕は一瞬怯んだ。けれど、胸の奥に熱が走った。これ以上黙っていたら、一生悔やむ。


 「……わかりました」


 僕は拳を握りしめた。


---


 殴り合いは、荒れ狂う波のリズムに合わせて始まった。矢野の拳は重く、一発ごとに体が軋んだ。けれど僕も必死に食らいついた。トースターの香ばしい匂いが、頭の中で渦を巻く。


 ――あの香りを、独り占めなんてさせない。


 最後に渾身の力を込めて、矢野の頬に拳を叩き込んだ。巨体がよろめき、テーブルの上のトーストが宙に舞い、床に散らばった。


 「ぐ……っ」

 矢野は鼻血を拭いながら僕を睨んだ。しかし次の瞬間、ふっと笑った。

 「やるじゃねえか、新米」


 そして、驚いたことに、そのままトースターを僕の足元へ押しやった。

 「持ってけ。……俺もな、本当は皆で食った方が美味いってわかってた」


---


 翌朝。食堂には焼きたてのトーストの香りが広がっていた。矢野も一緒に、皆でパンを頬張る。潮風の匂いよりも、マーガリンの香りの方が勝った。


 僕は噛みしめた。香ばしいパンの味とともに、この船の空気が少し変わった気がした。

 「これからは、皆で分け合いましょう」

 「おう」


 笑い声が船室に満ちた。


 そして僕は思った。

 たかがトースター、されどトースター。

 小さな文明が、小さな反抗が、人と人をつなぐ。

 船は波を越え、今日も進んでいく。

連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。


感想や評価お待ちしています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ