「船室」「オーブントースター」「殴る」
【波間のトースト】
湿った潮の匂いが、船室の隅々にまで染み込んでいた。夜明け前、甲板を叩く波の音が、眠りを浅くした。僕――新米船員の村上翔太は、寝台の上で目を開け、天井の薄汚れた鉄板を見つめた。
ここに乗り込んでから三週間。貨物船〈あかつき丸〉の生活にも、ようやく慣れ始めたところだ。慣れたといっても、豪華客船とは違い、狭い船室で共同生活を送り、汗と油と海水の匂いに包まれる毎日だ。
そんな中で唯一の楽しみは、船員用の小さな食堂に置かれた――なぜか場違いな――オーブントースターだった。
古びていて、ダイヤルは擦れて目盛りが読めず、タイマーの音も頼りない。それでも朝にパンを突っ込んで焼けば、香ばしい匂いが船室全体に広がり、潮の匂いを一瞬だけ忘れさせてくれる。パンにマーガリンを塗り、カリッと音を立てて噛む。その瞬間、僕は「まだ生きている」と実感できた。
――けれど、その小さな楽しみすらも、今日で壊れてしまうかもしれない。
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「おい、新米。お前、また勝手にトースター使ったろ」
そう言って船室のドアを蹴り開けてきたのは、先輩船員の矢野だった。四十代半ば、筋肉の塊のような体に、常にしかめっ面を貼り付けている男だ。僕は慌てて寝台から身を起こした。
「ち、違いますよ。昨日の朝しか……」
「うそつけ。この匂い、残ってんだろ。マーガリンの匂いってのはしつこいんだ」
矢野の嗅覚は妙に鋭い。僕は言い訳しようとしたが、彼は一歩詰め寄り、僕の胸ぐらを掴んだ。
「何度言わせんだ。あのトースターは“俺専用”だってな」
「そ、そんなルール、聞いてません」
「ルールじゃねえ、“常識”だ」
そして――ドン、と僕の肩を殴った。拳が硬く、体が壁に叩きつけられた。
「ぐっ……」
「次、勝手に使ったら海に放り込むぞ」
矢野はそれだけ言い残し、乱暴にドアを閉めて去っていった。
残された僕は、胸の痛みよりも、胃の底に広がる怒りと悔しさで震えていた。
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矢野がこの船の中で幅を利かせているのは誰もが知っていた。長年勤め、船長にも気に入られている。彼に逆らう者はおらず、僕のような新米はただ黙って耐えるしかなかった。
でも――。
「たかがオーブントースターで……」
そう呟いたとき、ふと頭に浮かんだ。
――いや、されどトースターだ。
この船においては、陸地のようにコンビニもカフェもなく、贅沢なんて存在しない。だからこそ、あのトースターは皆にとって、ちょっとした“文明”であり、心の支えであるはずだ。矢野に独占されていいはずがない。
僕は決意した。
取り返してやる。あのトースターを、皆のもとに。
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翌日の朝食時、僕は仲間にそれとなく聞いてみた。
「なあ、矢野さんって、トースター独り占めしてますよね」
周囲の船員たちは目をそらし、気まずそうにパンを噛んだ。ひとりが小声で言った。
「……まあ、そうだな。でも逆らわないほうがいい。前に文句言ったやつ、甲板で本当に殴られて歯を折った」
「そんな……」
結局、みんな恐れているだけだった。ならば僕がやるしかない。新米だからこそ、失うものも少ない。
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夜。波の音が激しく船室を揺らしていた。矢野は酒をあおり、食堂で豪快に笑っていた。テーブルには焼き上がったトーストが積まれている。
僕はそっと食堂に入った。
「矢野さん」
「ん? おう、新米。何だ」
「そのトースター、皆で使うべきだと思います」
一瞬、静まり返った。矢野の目が鋭く光った。
「お前……また俺に歯向かうのか」
「俺だけじゃない。皆だってそう思ってます。言わないだけで」
矢野は立ち上がり、拳を握った。船室の蛍光灯がちらつき、波が窓を叩く。
「だったら証明してみろ。俺を殴り倒してみろよ」
挑発に、僕は一瞬怯んだ。けれど、胸の奥に熱が走った。これ以上黙っていたら、一生悔やむ。
「……わかりました」
僕は拳を握りしめた。
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殴り合いは、荒れ狂う波のリズムに合わせて始まった。矢野の拳は重く、一発ごとに体が軋んだ。けれど僕も必死に食らいついた。トースターの香ばしい匂いが、頭の中で渦を巻く。
――あの香りを、独り占めなんてさせない。
最後に渾身の力を込めて、矢野の頬に拳を叩き込んだ。巨体がよろめき、テーブルの上のトーストが宙に舞い、床に散らばった。
「ぐ……っ」
矢野は鼻血を拭いながら僕を睨んだ。しかし次の瞬間、ふっと笑った。
「やるじゃねえか、新米」
そして、驚いたことに、そのままトースターを僕の足元へ押しやった。
「持ってけ。……俺もな、本当は皆で食った方が美味いってわかってた」
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翌朝。食堂には焼きたてのトーストの香りが広がっていた。矢野も一緒に、皆でパンを頬張る。潮風の匂いよりも、マーガリンの香りの方が勝った。
僕は噛みしめた。香ばしいパンの味とともに、この船の空気が少し変わった気がした。
「これからは、皆で分け合いましょう」
「おう」
笑い声が船室に満ちた。
そして僕は思った。
たかがトースター、されどトースター。
小さな文明が、小さな反抗が、人と人をつなぐ。
船は波を越え、今日も進んでいく。
連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。
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