「中華料理屋」「ブレスレット」「瞬きする」
【赤いブレスレット】
その中華料理屋は、駅前の雑居ビルの二階にあった。
赤い提灯の明かりは少しくすんでいて、ガラス戸の向こうからは食欲を誘う油と香辛料の匂いが漂ってくる。店名は「昇龍飯店」。どこにでもありそうで、どこにもなさそうな、少し場末感の漂う店だった。
会社帰りにふと立ち寄ったのは、なんとなくだった。仕事で失敗をして、上司に叱責された帰り道。電車に乗る気もせず、ネクタイを緩めながらアーケードを歩いていたら、赤い明かりに吸い寄せられた。
──いや、正直に言えば、酒と油で気を紛らわせたかっただけだ。
引き戸を開けると、小さなベルが鳴り、奥から「いらっしゃい!」と威勢のいい声が響いた。
カウンターに腰を下ろすと、白い調理服の店主がフライパンを振るう音がリズムよく響く。厨房の炎が瞬きするたび、赤い提灯の光と混じり、なんだか異国に迷い込んだような気分になった。
「生ビールでいいですか?」
「ええ、お願いします」
店主は手際よくジョッキを冷やし、泡を立てすぎないよう慎重に注いでくれる。その姿に少し救われた気分になる。
一口飲むと、喉が喜んだ。今日一日の重苦しさが、わずかに流れ落ちる。
「お客さん、初めてですよね?」
「ええ、まあ。たまたま」
「そりゃあよかった。うちの麻婆豆腐は絶品ですよ。辛いのいけます?」
「……試してみます」
そう答えると、店主はにっと笑って、鍋を振り始めた。
料理が出てくるまで、ふと視線を横にやると、カウンターの隅に若い女性が座っていた。年齢は二十代半ばほどか。小柄で、髪を後ろでざっくりまとめ、少し大きめのシャツを羽織っている。彼女の左手首には、ひときわ目立つ赤いブレスレットが巻かれていた。
光を受けると微かにきらめくそれは、プラスチックの安物にも見えたし、逆に特別な品にも見えた。
彼女は、こちらに気づくと一瞬だけ視線を合わせ──そしてすぐに目をそらした。
(ああ、俺と同じだな……)
人と向き合うのが億劫で、でも一人でいるのも寂しい。そんなとき、人は場末の店に逃げ込むのかもしれない。
麻婆豆腐が熱々の皿で運ばれてきた。レンゲですくい、口に含むと、強烈な痺れと辛さが舌を襲う。だがそれは不思議と嫌ではなく、むしろ心地よい痛みだった。
「どうです?」と店主が笑う。
「……うまいですね」
思わず正直に答えると、隣の彼女がくすりと笑った。その瞬間、赤いブレスレットが炎の光を受けてまた瞬いた。
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それから何度か「昇龍飯店」に通うようになった。仕事で落ち込んだ日も、何もない日も。カウンターに座れば、たいていあの女性がいる。
名前を知ったのは三度目の夜だ。
「よく来ますね」
彼女がそう言ったので、軽く会釈し、名刺を差し出した。
「佐伯です。営業をやってます」
「……じゃあ私は、真央。フリーでイラスト描いてます」
それきり会話は途切れたが、名を交わしただけで、少し距離が縮まった気がした。
ある夜、真央が手首のブレスレットを外し、眺めているのを見た。
「それ、特別なものなんですか?」
「……まあ。母の形見なんです」
声は淡々としていたが、その瞳は揺れていた。
「母が亡くなる前にくれたんです。『大事な瞬間に、これをしていなさい』って。意味はよく分からないけど……なんとなく、外せなくて」
そう言うと、彼女はまたブレスレットを手首に巻き直し、レンゲでスープをすくった。
俺は何も言えず、ただグラスの氷が溶ける音を聴いていた。
──瞬きする炎。
──赤いブレスレット。
気づけば、それを見るのが習慣になっていた。
だが冬のある日、昇龍飯店に行っても、真央の姿はなかった。
翌日も、翌週も。赤いブレスレットは現れなかった。
思い切って店主に尋ねると、少し困った顔で答えた。
「彼女なら……引っ越したよ。急に決まったみたいで。何も言わずにね」
ジョッキのビールがやけに苦かった。
(……そうか。結局、何も伝えられなかったな)
彼女の笑い声も、目をそらす仕草も、もう見られないのだと思うと、胸に穴があいたようだった。
数か月後、会社の帰りに偶然、別の街の駅前で真央を見かけた。
人混みの中、彼女の左手首で、赤いブレスレットが確かに瞬いていた。
声をかけようと一歩踏み出す。
だがその瞬間、彼女の横に立つ男性がそっと肩に手を置いた。
真央は彼を見上げ、穏やかに微笑んだ。
そして──人混みに溶けていった。
俺は立ち尽くした。
叫ぶことも、追いかけることもできず、ただ目をそらした。
瞬きする駅の光の中、胸の奥で何かが静かに崩れていった。
連載作品は0時更新。シリーズ『連載中』より、ご一読ください。
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