「傘」「駅のホーム」「遺言」
【兄が遺したもの】
冬の朝、駅のホームは白い息と雑踏で満ちていた。電車が滑り込むたびに、靴音と金属のきしむ音が混ざり、淡い緊張感が漂う。
私はいつも通り通勤電車に乗ろうとしていたが、今日は少し違った。手には、兄の遺品として渡された封筒がある。中身は遺言――だが、文字だけの遺言ではなかった。
封筒を開くと、そこには短くこう書かれていた。
――「雨の日に、あの駅で傘を貸してくれた人に会え」
兄は、誰に向けてこんなことを残したのか。私には皆目見当がつかない。だが、駅のホームに立つ私は、どこか胸がざわついていた。
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その日の天気は生憎の雨。小さな折りたたみ傘を手に、私は人々の波に紛れながらホームを歩く。誰もが急ぎ足だ。足元に跳ねる水滴と、傘と傘のぶつかる音。
ふと、改札口近くで立ち止まる中年の女性が目に入った。
紺色のコートに黒い傘。どこか見覚えのある仕草だ。私は胸が高鳴った。
「……兄が言っていたのは、この人かもしれない」
しかし声をかける勇気は出ない。彼女の傘は、私の心の中でくすぶる不安と同じくらい、私から遠く感じられた。
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雨足が強くなる。ホームの屋根の下で、女性は小さな子どもを抱えている。子どもは濡れた髪を手で払っている。
私の手元の傘は一人分しかない。迷った瞬間、女性の子どもが滑って小さな声で泣いた。
咄嗟に私は傘を差し出す。
「よかったら、これ使ってください」
女性は驚いたようにこちらを見る。
「ありがとうございます……」
その瞳はほんの少し、緩んだように見えた。
子どもは傘の下で笑った。雨粒がキラリと光る。
私はその瞬間、兄の遺言の意味を理解した気がした。
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数日後、私は兄の机の奥からもう一通の手紙を見つけた。
――「傘を貸したとき、人は世界の優しさに気づく」
兄は、命を落とす直前、雨の日の小さな出来事を心に留め、私に託したのだろう。傘を貸すという些細な行為が、人の心を救い、繋げることがある。
駅のホームで見た女性の笑顔は、雨粒と同じように、確かに胸に残った。温かくて、優しいものだった。
その日から、私は雨の日に駅のホームを歩くたび、意識的に誰かに傘を差し出すようになった。小さな優しさの連鎖。兄が私に残した遺言は、思ったよりずっと重く、しかし確かな温もりをもって、日常の中で生き続けていた。
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