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三題噺  作者:
2025年8月

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11/50

「万年筆」「喫茶店」「迷子」

【万年筆に導かれて】


 古びた商店街の外れに、一軒だけ灯りを落とさない喫茶店があった。

 店の名前は「南蛮堂」。昭和の香りを残した木の扉を開けると、深煎りの珈琲の香りが立ちのぼる。大学を出て三年、作家を志しながら原稿は一枚も完成しない。そんな僕にとって、この店は唯一の居場所だった。


 その日もノートと安物のボールペンを広げ、いつものように白紙とにらめっこしていた。窓の外は小雨。商店街には人影がなく、寂しさがいっそう際立っていた。


 ふと、ガラス戸がぎぃと開く音がした。振り返ると、濡れた髪の少女が立っていた。十歳くらいだろうか。ワンピースは泥で汚れていて、片手には黒光りする古い万年筆を握っていた。


「……ここ、入ってもいいですか」

 小さな声でそう言うと、マスターは無言で頷き、タオルを差し出した。


 少女は僕の席の隣に腰を下ろした。湯気の立つココアを両手で抱えながら、ぽつりと口を開いた。

「私、迷子なんです」

 確かに、その姿は町に似つかわしくなかった。


 気になって、僕は問いかけた。

「迷子って、どこから来たの?」

「……わかりません。でも、この万年筆だけは絶対に手放しちゃいけないって、誰かが言ってました」


 彼女の掌の万年筆は、妙に存在感を放っていた。漆黒の軸に金の模様が彫り込まれ、使い込まれた痕跡がある。まるで時代を超えて旅してきたような風格があった。


 マスターは静かに囁いた。

「それは、ずいぶん古い物だね。戦前に作られた希少品じゃないか」


 少女は頷いた。

「これで書いたら、きっと大事な人に会える気がするんです」


 僕は半ば冗談で、ノートを差し出した。

「じゃあ、ここに書いてみたら?」


 少女は小さな手でペンを握り、インクを落とすように一文字ずつ綴った。

 ――「ただいま」。


 すると、僕の目の前の白紙に、言葉がふわりと浮かび上がった。いや、それだけではなかった。記憶の奥に眠っていた母の声が、不意に蘇ったのだ。小学生の頃、夜更かしを叱られたときの声。「早く寝なさい」と優しく諭す声。ずっと忘れていたのに、鮮やかに耳元に響いた。


 僕は息をのんだ。

「これ……どういうことだ?」


 少女は少し笑った。

「この万年筆で書くと、大切な人の声や記憶が戻ってくるんです」


 彼女自身もまた、誰かを探しているのだろう。迷子という言葉の意味が、少しずつわかってきた気がした。


 僕は勇気を出し、ペンを借りてみた。震える手で書いた言葉は――「小説家になりたい」。


 その瞬間、頭の中に閃光のように物語が流れ込んできた。人物、場面、セリフ、匂い。すべてが洪水のように押し寄せ、ペン先から次々と形を成していく。白紙だったノートが、黒いインクで満たされていった。


 気づけば、数十ページが埋まっていた。僕はただ震えるしかなかった。

「これは……奇跡だ」


 少女は嬉しそうに微笑んだ。

「ほらね。きっとあなたにも必要だったんです」


 僕は思わず尋ねた。

「君は? 本当は誰を探しているんだい」


 少女はしばらく沈黙した。やがて、かすれた声で言った。

「お母さんです。……気がついたらいなくて。でも、このペンを持ってれば、きっと会えるって信じてます」


 その瞬間、店の扉が開いた。ずぶ濡れの女性が立っていた。息を切らせ、必死に娘の名を呼んでいる。少女は立ち上がり、万年筆を胸に抱えたまま、母親のもとへ駆け寄った。


「お母さん!」


 二人はしっかりと抱き合った。母親の肩越しに、少女は振り返り、僕に小さく手を振った。

「ありがとう。あなたのおかげで、もう迷子じゃなくなれた」


 その声が、喫茶店の深い静けさに溶けていった。


 それから少女と母親は商店街の闇に消えていった。残されたのは、机の上に置かれた一本の万年筆だった。


 僕は恐る恐る手に取り、胸の奥で誓った。

「必ず、この物語を完成させる。あの日、迷子の少女がくれた奇跡を、世界に届けるために」


 その夜、ノートは再び言葉で満たされた。もう迷わない。僕は作家として歩き出す。

 ――そしていつか、彼女が読んでくれる日が来ることを願いながら。



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