第9話 猫山さんとショッピング
水曜日。
俺は、普段の休日よりも少し早く起きた。
理由は単純だ。
今日は、猫山さんと買い物に行く約束をしている。
……いや、別に浮かれているわけじゃない。
待ち合わせに遅れるわけにもいかないし、出かける前に余裕を持っておきたい。それだけだ。
そう自分に言い聞かせながら身支度を済ませていると、出発直前にスマートフォンが震えた。
『先輩、おはようございます! 今日はよろしくお願いしますね♪』
猫山さんからのメッセージだった。
続けて、待ち合わせ場所と時間が送られてくる。
俺は簡単に返事を打った。
『了解。じゃあ、あとで』
送信してから、ふと思う。
……あいつ、ずいぶん楽しみにしてるみたいだな。
まあ、誘った本人なのだから当然か。
俺はスマートフォンをポケットにしまい、家を出た。
***
待ち合わせ場所は、駅から少し離れたショッピングモールだった。
日用品から衣服、雑貨まで何でもそろっている。休日にはそれなりに人が集まる場所だ。
約束の時間より五分ほど早く到着した俺は、入口の近くで猫山さんを待つことにした。
すると、少し離れたところから聞き慣れた声が飛んでくる。
「先輩ー!」
振り返ると、猫山さんがこちらに手を振りながら歩いてきた。
いつもの制服姿ではない。
淡い色のブラウスに、すっきりとしたスカート。肩には小さなバッグを掛けている。
普段、店で見ている姿とは違って、ずいぶん新鮮だった。
……いや、別に変な意味じゃない。
休日なのだから、私服なのは当たり前だ。
「お待たせしました!」
「いや、俺も今来たところだよ」
「本当ですか? もしかして、私に会うのが楽しみすぎて早く来ちゃいました?」
「違う。五分くらい早く着いただけだ」
「へえー。五分も早く」
「その言い方、絶対信じてないだろ」
「いえいえ。先輩のそういうところ、かわいいなって思っただけです!」
「男にかわいいって言うな」
「あははっ!」
猫山さんは楽しそうに笑った。
……まったく。
休日くらい、少しは大人しくしてくれないものだろうか。
「じゃあ、行きましょうか!」
「ああ。まずは何を買うんだ?」
「日用品です。シャンプーとか洗剤とか。あと、ちょっと服も見たいなって」
「ずいぶん買うものが多いな」
「せっかく来たんですから、まとめて買っちゃおうと思って!」
「なるほどな」
「それに……」
「それに?」
「先輩と一緒なら、荷物が増えても安心ですから!」
「やっぱり荷物持ち目的じゃねえか!」
「冗談ですよ、冗談!」
そう言いながら、猫山さんは俺の隣に並んだ。
俺たちは、そのままショッピングモールの中へ入っていった。
***
最初に向かったのは、日用品を扱う店だった。
猫山さんは洗剤やシャンプーを手に取り、成分や香りを確かめながらカゴに入れていく。
「先輩って、普段どの洗剤を使ってます?」
「俺はこっちかな。特にこだわりがあるわけじゃないけど」
「へえ。じゃあ、私もこれにしてみようかな」
「俺に合わせなくてもいいだろ」
「いいんです。参考にしてるだけですから」
何でもない、生活感のある会話。
こうしていると、同じ職場の先輩と後輩というより、普通に一緒に買い物をしている二人みたいだ。
……まあ、実際はただの先輩と後輩なんだけど。
「先輩、これ持ってください!」
「はいはい」
気づけば、俺の手には洗剤やシャンプーが入った袋がぶら下がっていた。
「お前、自分で持てるだろ」
「持てますよ?」
「じゃあ、なんで俺に渡すんだよ」
「先輩が持ってくれるかなーって思って」
「確信犯じゃねえか!」
「頼りにしてます、先輩♪」
「……はいはい」
結局、俺はそのまま荷物を持つことになった。
まあ、これくらいなら別に構わない。
猫山さんも買い物を楽しんでいるようだし、俺だって今のところは退屈していなかった。
その後、食品売り場や雑貨店を回り、必要なものを一通り買い終えた。
「よし、日用品はこれで終わりです!」
「お疲れ。あとは服か?」
「はい!」
猫山さんの表情が、ぱっと明るくなる。
どうやら、こちらが本命らしい。
「そんなに楽しみなのか?」
「もちろんです! 服を見るのって楽しいじゃないですか」
「まあ、そういうもんか」
「先輩は、女の子の服とか気にならないんですか?」
「……急に何を聞いてるんだよ」
「いえ、先輩って普段、そういう話をしなさそうなので」
「別に、服くらい見るだろ」
「へえー?」
猫山さんが、にやりと笑う。
「じゃあ、今日はいっぱい見てもらいましょうか!」
「……嫌な予感しかしないんだが」
「気のせいですよ!」
その笑顔を見て、俺は深くため息をついた。
どうやら、服を買うだけでは終わらなさそうだ。
***
買った日用品をショッピングモール内のコインロッカーに預け、俺たちは衣料品店へ向かった。
店に入るなり、猫山さんはさっそく服を見て回り始める。
ハンガーに掛かった服を手に取っては、色やデザインを確かめていた。
「うーん……こっちもかわいいし、こっちもいいなぁ」
「そんなに迷うもんなのか?」
「迷いますよ! せっかく買うなら、気に入ったものが欲しいじゃないですか」
「まあ、それはそうか」
「先輩は、どっちがいいと思います?」
そう言って、猫山さんは二着のトップスを俺に見せてきた。
片方は落ち着いた色合いのシンプルなもの。もう片方は明るい色で、少し可愛らしいデザインだった。
「……俺に聞かれてもな」
「えー? さっき、服くらい見るって言ってたじゃないですか」
「見るのと選ぶのは違うだろ」
「じゃあ、練習です。どっちが私に似合うと思います?」
逃げ道を塞がれた。
俺は二着を見比べてから、猫山さんに視線を向ける。
「……こっちじゃないか?」
選んだのは、落ち着いた色合いのほうだった。
「おっ。どうしてですか?」
「いや、お前、普段は明るい色の服を選びそうなイメージがあるし。たまにはこういうのもいいんじゃないかと思って」
「ふーん……」
猫山さんは服と俺の顔を交互に見た。
それから、どこか満足そうに笑う。
「なるほど。先輩はこういうのが好きなんですね?」
「俺の好みの話じゃないだろ!」
「でも、私に似合うと思ったんですよね?」
「そう言ってるだろ……」
「ふふっ。ありがとうございます!」
猫山さんは選んだ服を抱え、試着室のほうへ向かった。
「ちょっと着てみますね!」
「おう」
俺は近くの棚を眺めながら待つことにした。
しばらくすると、試着室のカーテンが少しだけ開いた。
「先輩、先輩」
「ん?」
「着替えたので、見てもらってもいいですか?」
「……何を?」
「服に決まってるじゃないですか!」
「いや、そうだけど……」
「じゃあ、どうぞ!」
カーテンが開く。
そこには、さっき俺が選んだ服を着た猫山さんが立っていた。
いつもより落ち着いた印象で、普段の生意気な雰囲気が少しだけ和らいで見える。
……いや。
普通に、似合っていた。
「どうですか?」
猫山さんが、その場でくるりと一回転する。
「この服、私に似合います?」
「…………」
「先輩?」
「……ああ。似合ってると思う」
「……本当ですか?」
「本当だよ。すごく似合ってる」
「……っ!」
口にした瞬間、猫山さんの動きが止まった。
じっと俺の顔を見つめたかと思うと、その頬が少しずつ赤くなっていく。
「……すごく、ですか?」
「え? ああ。うん。すごく」
何かおかしなことを言っただろうか。
似合っているものは、似合っている。
それだけの話だ。
なのに、猫山さんは視線を落とし、服の裾を指先でつまんだ。
「……そ、そうですか」
声まで小さくなっていた。
いつものように、からかってくる気配もない。
「……猫山さん?」
「な、何ですか?」
「いや、急に大人しくなったから」
「べ、別に! 普通ですけど!」
そう言いながらも、猫山さんは俺と目を合わせようとしなかった。
耳まで赤くなっている。
……え?
もしかして、照れてるのか?
俺が?
いや、違う。
俺が照れさせたのか?
そう考えた途端、今度はこっちまで妙に恥ずかしくなってきた。
「……ま、まあ、気に入ったなら買えばいいんじゃないか」
「……はい」
猫山さんは小さくうなずき、逃げるように試着室へ戻っていった。
カーテンが閉まる直前、ほんの少しだけ顔をのぞかせる。
「……先輩」
「ん?」
「ありがとうございます」
それだけ言って、カーテンが閉まった。
俺はその場に立ち尽くした。
……なんだ、今の。
いつもなら、俺が少しでも動揺すれば、すぐにからかってくるくせに。
今日の猫山さんは、妙に素直だった。
そのことが、なぜだか頭から離れなかった。
***
その後も、俺たちは店内を回った。
猫山さんは別の服も何着か試し、俺に感想を聞いてきた。
もちろん、途中からはいつもの調子を取り戻していた。
「先輩、これはどうですか?」
「いいんじゃないか?」
「もうちょっと具体的に!」
「……色がいいと思う」
「雑っ!」
「じゃあ、何て言えばいいんだよ!」
「あははっ!」
そんなやり取りを繰り返しながら、猫山さんは最終的に二着の服を購入した。
店を出る頃には、俺の両手に買い物袋が増えていた。
「いやあ、いい買い物ができました!」
「それはよかったな。……で、この荷物は全部俺が持つのか?」
「え? もちろんです!」
「少しくらい自分で持て!」
「先輩、頼りにしてますから♪」
「その言葉、便利に使いすぎだろ……」
文句を言いつつも、俺は袋を持ち直した。
猫山さんは隣で笑っている。
さっき試着室で見せた、あの照れた表情。
今はすっかり、いつもの生意気な笑顔に戻っていた。
……あれは、何だったんだろう。
俺が考え込んでいると、猫山さんがこちらをのぞき込んできた。
「先輩、どうしました?」
「いや、何でもない」
「ふーん?」
少し疑わしそうな顔をしたものの、それ以上は追及してこなかった。
俺たちは買い物袋をコインロッカーから回収し、ショッピングモールを出て駅へ向かった。
***
駅に着く頃には、昼を少し過ぎていた。
買い物を終えた猫山さんは、ずいぶん満足そうだった。
「今日はありがとうございました、先輩!」
「どういたしまして。俺は荷物持ちをしてただけだけどな」
「そんなことないですよ。服も一緒に選んでくれましたし」
「選んだって言っても、二択で答えただけだろ」
「それでもです!」
猫山さんは、いつもの笑顔でそう言った。
そして、俺が持っていた袋を受け取ろうと手を伸ばす。
「最後くらい、自分で持ちますよ」
「お、珍しいな」
「先輩にばっかり持たせるのも悪いですから」
「最初からそうしてくれればよかったんだけどな」
「それはそれ、これはこれです!」
「どういう理屈だよ……」
二人で笑いながら、駅の入口まで歩いた。
そろそろ解散だ。
俺がそう思っていると、猫山さんが不意に足を止めた。
「……先輩」
「ん?」
「今日は、本当に楽しかったです」
いつもより静かな声だった。
俺も足を止め、猫山さんを見る。
「……そうか。俺も、まあ、楽しかったよ」
「ふふっ。よかった」
猫山さんは嬉しそうに笑った。
それから、少しだけ俺に近づいてくる。
「……先輩、ちょっと耳貸してください」
「え? 何だよ?」
「いいから」
言われるままに、俺は少しだけ身をかがめた。
すると、猫山さんが俺の耳元に顔を寄せる。
ふわりと、彼女の髪が頬に触れた。
近い。
近すぎる。
そう思った瞬間、耳元で小さな声がした。
「……今日の私たち、カップルみたいでしたね」
「――っ!?」
声にならなかった。
猫山さんは、俺の反応を確かめるように一歩だけ離れた。
その顔には、いつもの生意気な笑みが浮かんでいる。
……いや、違う。
頬が、ほんの少し赤い。
「それじゃあ、先輩! また明日、お店で!」
「え、あ、おう……!」
「今日はありがとうございました!」
猫山さんはぺこりと頭を下げると、くるりと背を向けた。
そして、振り返ることなく駅の中へ歩いていく。
俺は、その後ろ姿を見送った。
数秒。
十秒。
……姿が見えなくなっても、しばらく動けなかった。
「…………」
カップル。
今日の私たち、カップルみたい。
……あいつ。
あいつは、本当に。
「~~~~っ!」
俺は両手で顔を覆った。
そして、誰もいない駅前の端っこで、ゆっくりとしゃがみ込む。
やばい。
これは、やばい。
服を褒めただけだ。
一緒に買い物をしただけだ。
それなのに、あんなことを耳元で言われたら――!
「……勘弁してくれよ、猫山さん……!」
声を押し殺しながら、俺はその場で悶えた。
もちろん、通行人に変な目で見られていたことには、最後まで気づかなかった。




