第10話 猫山さんと温泉旅行 前編
朝、出勤して制服に着替えていると、店長から声がかかった。
「みんな、ちょっと集まってくれ。話がある」
事務所に集まると、店長は少し改まった様子で口を開いた。
「明日から三日間、店を休業する。前から計画していた改装工事でな。日程がようやく決まったんだ」
「改装ですか?」
桜場さんが身を乗り出す。
「ああ。店内も少し使いづらくなってきたからな。工事の間は不便をかけるが、終われば今より働きやすくなるはずだ」
「なるほど。前に業者さんと話していたのは、その件だったんですね」
大久保さんが納得したように頷いた。
「そういうことだ。で、せっかくみんな揃って休みになるんだ。日頃のねぎらいも兼ねて、旅行にでも行こうと思ってな!」
「旅行ですか?」
佐々木さんが目を丸くする。
「一泊二日の温泉旅行だ。交通費も宿泊費も、今回は俺が持つ!」
「ええっ!? 本当ですか!?」
桜場さんの顔がぱっと明るくなった。
「本当だとも。いつも店を支えてくれているみんなへの礼だ。たまには仕事のことを忘れて、ゆっくりしてくれ」
「店長、太っ腹ですねえ」
大久保さんが感心したように笑う。
「ははは、こういうときくらいはな!」
事務所が一気に賑やかになった。
俺も思わず顔がほころぶ。職場の人たちと旅行に行く機会なんて、これまでほとんどなかった。
「近藤くんも、もちろん来るよな?」
「はい。ありがとうございます。ぜひ参加させてください」
俺が答えると、隣から猫山さんが身を乗り出してきた。
「先輩、先輩、温泉旅行ですよ!」
「お前、はしゃぎすぎだろ」
「失礼ですねえ。ただ喜んでるだけですよ?」
「そうだな。俺が悪かった」
「誠意が足りませんよ?」
「おい」
「嘘です! 旅行先でも、よろしくお願いしますね?」
「それ、今から警戒しろってことか?」
「先輩の態度次第です♪」
「俺の態度で何か変わるのかよ」
「もちろんです。日頃の行い次第で、先輩を優しくからかうか、厳しくからかうか決まるんです」
「結局、俺で遊ぶのかよ!」
猫山さんは楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は小さくため息をつく。
……先が思いやられる。
とはいえ、俺自身も旅行を楽しみにしているのは事実だった。
***
旅行当日。
俺たちは電車とバスを乗り継ぎ、ようやく目的地の旅館に到着した。
「いやあ、なかなか遠かったですね」
荷物を持ち直しながら、俺は周囲を見渡した。
旅館は山々に囲まれた場所に建っていた。木々の間を抜ける風は涼しく、空気も澄んでいる。普段、店と家を往復している俺にとっては、それだけで十分に旅行らしい景色だった。
「わあ……すごいですね! 山に囲まれてます!」
桜場さんが目を輝かせる。
「本当ですね。空気もおいしい気がします」
「空気に味はないと思いますけどね」
大久保さんが穏やかに突っ込む。
「もう、大久保さんったら! そういう雰囲気の話です!」
「はいはい。桜場さんは、まず深呼吸して落ち着きましょうね」
「子ども扱いしないでください!」
二人のやり取りに、俺は思わず笑った。
「近藤くんまで笑わないでくださいよ!」
「すみません。お二人とも、いつもどおりだなと思って」
「それ、褒めてます?」
大久保さんが少しだけ目を細める。
「もちろん褒めてますよ」
「なら、よしとします」
桜場さんは納得したように頷いた。
チェックインを済ませ、荷物を部屋に置くと、夕食までは自由時間だと告げられた。
部屋割りを確認していたところで、店長が佐々木さんに声をかけた。
「そうだ、佐々木。せっかくこの辺まで来たんだ。近くに地酒のうまい店があるらしい。一緒に行かないか?」
「いいですね! 温泉も楽しみですけど、地酒も気になります!」
「だろう? 夕食までには戻るから、みんなは好きに過ごしていてくれ」
そう言うと、店長と佐々木さんは連れ立って出かけていった。
「店長、旅行先でもお酒なんですね」
桜場さんが呆れたように笑う。
「まあ、あの二人らしいですね」
大久保さんも苦笑した。
俺たちもせっかく遠くまで来たのだから、少し周辺を歩いてみよう。そう思って旅館の近くを散策していると、坂の下から賑やかな音が聞こえてきた。
「あれ、何かやってません?」
猫山さんが音のする方を指差した。
坂の下には、屋台の並ぶ通りが見える。昼間だというのに、人の声や祭囃子がこちらまで届いていた。
「お祭りみたいですね」
大久保さんが案内板を確認する。
「ちょうど今日やっているみたいです。昼間から屋台も出ているんですね」
「行ってみましょうよ!」
桜場さんがすぐに声を上げた。
「桜場さん、元気ですねえ」
「だって、せっかく来たんですよ? 旅館でじっとしているなんてもったいないです!」
「それは確かにそうですね」
大久保さんも頷いた。
猫山さんが俺を見る。
「先輩も行きますよね?」
「まあ、せっかくだしな」
「決まりです♪」
「俺の返事、ずいぶん軽く扱われなかったか?」
「ちゃんと聞きましたよ。聞いたうえで、行くことにしました」
「俺の意思は?」
「先輩、断る理由ないじゃないですか」
「そうだけど……」
「では、文句を言わずに行きましょう」
俺たちは四人で坂を下り、祭りの会場へ向かった。
***
会場には、色々な屋台が並んでいた。昼間だというのに人も多く、通りは思った以上に賑わっている。
「わあ、いろんなのがありますよ!」
桜場さんが目を輝かせる。
「桜場さん、先に全体を見て回ったほうが効率的です」
「お祭りで効率を考えるんですか?」
「考えますよ。楽しみを一つでも逃したら大変ですから」
「大久保さん、意外と本気ですね……」
猫山さんが感心したように呟く。
「猫山さんも、さっきから屋台を見つけるたびに足を止めていますけど」
「私は本能に従っているだけです♪」
「それを衝動買いと言うんじゃないか?」
俺が口を挟むと、猫山さんがすぐに振り返った。
「先輩、今のは褒め言葉ですよ」
「どこがだよ」
「本能に忠実って、素敵じゃないですか」
「自分に都合よく解釈するな」
「先輩はもっと見習ったほうがいいですよ。いつも考えすぎですから」
「余計なお世話だ」
そんなやり取りをしている間にも、桜場さんと大久保さんは次々と別の屋台を見つけていく。
「ねえ、二人とも。あれ食べません?」
猫山さんが指差したのは、りんご飴の屋台だった。
「私、りんご飴食べたいです!」
桜場さんがすぐに手を挙げる。
「私も。せっかくお祭りに来たなら、定番は押さえておきたいですね」
大久保さんも頷いた。
「じゃあ、四つください!」
「俺の分も入ってるのか?」
思わず尋ねると、猫山さんが振り返った。
「先輩は食べないんですか?」
「いや、食べるけど……」
「じゃあ、問題ありませんね♪」
「最初からそのつもりだっただろ」
「さて、どうでしょう?」
猫山さんは悪びれもせず、屋台の店員からりんご飴を受け取った。
俺たちはそれぞれ一本ずつ手に取り、再び屋台を見て回る。
「次こそは射的にしましょう!」
「その前に飲み物を買いませんか?」
「じゃあ、飲み物を買ったら今度こそ射的ですよ!」
「そのあと、焼きそばも食べたいです!」
「桜場さん、まだりんご飴を食べ終わっていませんよ」
「それはそれ、これはこれです!」
三人の勢いについていきながら、俺は少し後ろを歩いた。
別に、仲間外れにされているわけではない。話しかけられれば普通に会話もするし、みんなも気を遣ってくれている。
ただ、女性三人が盛り上がっている中に男一人というのは、どうにも落ち着かなかった。
俺が会話に加わろうとしても、話題はいつの間にか女性同士のものに戻ってしまう。
そりゃそうだろう。俺だって、男友達と話しているところに女性が一人混ざっていたら、多少は気を遣うと思う。
……仕方ない。
そう自分に言い聞かせながら、俺は少しだけ歩調を落とした。
「近藤くん、少し疲れました?」
大久保さんが振り返った。
「いえ、大丈夫ですよ!」
「でも、さっきから少し離れて歩いていますよ」
「そう見えましたか?」
「見えました。無理そうなら休みましょうか?」
大久保さんは俺の体調を気にしてくれた。
「じゃあ、あそこのベンチで少し休みましょうか」
桜場さんも俺の顔を覗き込む。
「近藤くん、顔がちょっと疲れてます」
「そんなにですか?」
「はい。お仕事中より、少しだけ困った顔です」
俺は隣を歩いていた猫山さんに目を向けた。
「それはたぶん、猫山さんに振り回されてるからだな」
「私のせいですか!?」
猫山さんがすかさず口を挟む。
「心外ですねえ。私は先輩を楽しい場所に連れてきてあげているだけなのに」
「連れてきたのはみんなだろ」
「でも、先輩の隣にいるのは私です」
「それは……」
言い返そうとしたが、うまい言葉が出てこなかった。
「ほら、先輩も反論できないみたいですよ」
猫山さんが得意げに笑う。
「はいはい。休みましょう、休みましょう」
大久保さんが話をまとめ、俺たちは屋台の並ぶ通りから少し外れたベンチに腰を下ろした。
買ったりんご飴を食べながら休んでいると、三人はまた楽しそうに話し始める。
「桜場さん、今度こそ射的でいいんですよね?」
「はい! やりましょ! 絶対に景品を取ります!」
「桜場さん、前に射的で一度も当たっていませんでしたよね」
「今日は違います! 今日は旅行で運が上がっていますから!」
「その理屈なら、私も当たりそうですね」
「大久保さんまでやるんですか?」
「もちろんです。桜場さんが外したときのために、私が取っておきます」
「私が外す前提ですか!?」
猫山さんが二人の会話に笑い声を重ねる。
俺はその様子を眺めながら、ようやく少し肩の力が抜けていくのを感じていた。
職場で見る猫山さんは、俺をからかってばかりいる印象が強い。けれど、こうして桜場さんや大久保さんと話している姿は、いつもよりずっと自然で、年相応に楽しそうだった。
……まあ、俺への態度が特別なのは、相変わらずらしいけどな。
しばらくして、大久保さんが時計を確認した。
「そろそろ旅館に戻ったほうがよさそうですね。夕食の時間もありますし」
「そうですね。帰りましょうか」
桜場さんが名残惜しそうに立ち上がる。
「猫山さんと近藤くんは、どうします?」
「私はもう少し見ていきます」
猫山さんが即答した。
「近藤くんは?」
大久保さんに尋ねられ、俺が答えようとしたところで、桜場さんが大久保さんの袖を引いた。
「じゃあ、私たちは先に戻ろうか」
「ええ。二人とも、夕食には遅れないでくださいね」
「はい。お気遣いありがとうございます」
俺が答えると、桜場さんがにっこりと笑った。
「近藤くんも、猫山さんに連れ回されすぎないようにしてくださいね」
「気をつけます」
「猫山さん、近藤くんをよろしくお願いします」
「任せてください♪」
「任されないで!」
俺の抗議をよそに、桜場さんと大久保さんは坂道を上っていった。
二人の背中が見えなくなると、隣の猫山さんが俺を見上げた。
「先輩、どうします?」
「……俺たちも戻るか?」
「先輩は、もう帰りたいんですか?」
「そういうわけじゃないけど」
「なら、もう少し見て回りましょうよ」
「わかったよ」
「素直で助かります♪」
「お前が勝手に決めてるだけだろ」
「でも、先輩はちゃんとついてきてくれますよね」
猫山さんはそう言って、俺の返事を待たずに歩き出した。
さっきまで三人の後ろを歩いていたときとは違い、今度は猫山さんが俺の隣に並んでいる。
「先輩、あれ見てください。金魚すくいですよ」
「本当だな」
「やってみます?」
「俺は子どもの頃にやったくらいだよ」
「じゃあ、今度勝負しましょう」
「今度って、いつだよ」
「先輩が逃げなければ、そのうちです♪」
「逃げる前提なのかよ」
「先輩、勝負になると急に弱気になりますから」
「勝手に決めつけるな」
「では、次にお祭りへ来たときに確認しましょう」
「次がある前提なのか?」
「ないんですか?」
猫山さんは、少しだけ首を傾げた。
からかっているだけのようにも見えたが、その表情は妙に自然だった。
「……まあ、機会があればな」
俺がそう答えると、猫山さんは満足そうに笑った。
「約束ですよ、先輩」
「今のが約束になるのかよ……」
「なります♪」
どうやら、これ以上反論しても無駄らしい。
そんなことを考えていると、猫山さんがりんご飴を持った手を軽く持ち上げた。
「先輩、これ食べます?」
「まだ食べてるのか」
「おいしいので、ゆっくり食べてるんです」
「そうか」
「先輩も、ひと口どうぞ」
猫山さんは、食べかけのりんご飴を俺のほうへ差し出した。
「いや、自分で買えばいいだろ」
「先輩の分は、さっき買ったじゃないですか」
「そうだけど……」
「もう食べ終わったんですか?」
「食べ終わったけど」
「じゃあ、私のおすすめも味見してみてくださいよ。こっちのほうが美味しいかもしれませんよ?」
「同じ屋台で買ったんだから、大して変わらないだろ」
「食べてみないとわからないじゃないですか」
「そういうものか?」
「そういうものです♪」
猫山さんは、りんご飴を持った手を俺のほうへ伸ばした。
「ほら、ひと口だけ」
「いや、だから――」
「先輩、私が持っていると食べにくいんですか?」
「そういう問題じゃない!」
「では、問題ないですね♪」
「話をすり替えるな!」
言い合っているうちに、りんご飴がさらに口元へ近づいてくる。
押し切られるように、俺はりんご飴にかじりついた。
甘い飴と、りんごの酸味が口の中に広がる。
「……これでいいか?」
「よろしい!」
猫山さんは満足そうに笑った。
その直後、俺は自分の行動に気づいた。
今、彼女が食べかけていたものを、そのまま口にした。
そうして、猫山さんが顔を覗き込んでくる。
「先輩?」
「いや……」
「もしかして、気づきました?」
「何にだよ」
猫山さんは、いたずらっぽく目を細めた。
「間接キスですね♪」
「――っ!?」
顔が一気に熱くなる。
「お前っ!」
「先輩、顔真っ赤ですよ?」
「誰のせいだと思ってるんだ!」
「私ですか?」
「そうだよ!」
「ふふっ。先輩って、こういうことには本当に弱いですね」
「お前がわざとやってるんだろ!」
「さあ、どうでしょう?」
猫山さんはくすくすと笑った。
「……もういい。行くぞ」
「はいはい。そんなに怒らなくてもいいじゃないですか」
「怒ってるんじゃない。調子が狂うんだよ」
「それって、私のことを意識してるってことですか?」
「違う!」
「即答ですかぁ」
「当たり前だろ!」
「では、そういうことにしておきます♪」
猫山さんは楽しそうに笑いながら、再び歩き出した。
俺はその隣を歩きながら、さっきの出来事を頭から追い出そうとする。
……たかがりんご飴だ。
食べ物を分けただけ。そう、ただそれだけのことだ。
なのに、どうしてこんなに動揺しているんだ、俺は。
しばらく二人で屋台を見て回るうちに、空が少しずつ夕暮れに染まっていった。
「そろそろ戻るぞ。夕食の時間も近いだろ」
「そうですね」
猫山さんは頷き、坂道の先にある旅館を見上げた。
「夕食、楽しみですね」
「ああ。店長が料理もいいって言ってたしな」
「先輩、いっぱい食べてくださいね」
「急にどうした?」
「さっき、私たちに付き合ってばかりで、あまり食べてなかったじゃないですか」
思わず猫山さんを見る。
「……気づいてたのか?」
「見ていればわかりますよ」
「じゃあ、俺が気まずそうにしてたのも?」
猫山さんは一瞬だけ目を丸くした。それから、いつもの笑顔に戻る。
「まあ、先輩はわかりやすいですからね」
「悪かったな」
「でも、二人で回るようになってからは、楽しそうでしたよ?」
「……それは」
言いかけて、言葉に詰まった。
確かに、二人きりになってからは、さっきまで感じていた居心地の悪さは薄れていた。
その代わり、別の意味で落ち着かなくなった気もするが。
「だって、先輩が一緒にいてくれたほうが、私、楽しいですから」
猫山さんは、いつもより少しだけ声を落として言った。
「……っ」
思わず、返事に詰まった。
いつもの調子でからかってくると思っていたのに、そんなふうに言われるとは思わなかった。
「先輩?」
「な、なんでもない!」
「ふうん?」
猫山さんは不思議そうに首を傾げたあと、いつもの笑顔に戻った。
「まあ、先輩も楽しんでくれたならよかったです♪」
「……お前、そういうところだぞ」
「えっ、何がですか?」
「いや、もういい」
これ以上話していたら、また調子を狂わされそうだった。
俺は誤魔化すように、旅館へ続く坂道を歩き出した。
「先輩、待ってくださいよ。夕食に遅れちゃいます」
「わかってるって」
猫山さんは小走りで追いつくと、俺の隣に並んだ。
「そうだ。夕食の席でも隣に座りましょうか?」
「……からかうから遠慮する」
「えーー、残念」
猫山さんは、いつものように楽しそうに笑った。
まったく、最後まで調子の狂うやつだ。
そう思いながらも、さっきの言葉が頭から離れなかった。
――先輩が一緒にいてくれたほうが、私、楽しいですから。
あれも、いつものように俺をからかうための言葉だったのだろうか。
答えが出ないまま、俺たちは夕食の待つ旅館へと戻っていった。




