第11話 猫山さんと温泉旅行 後編
夕食の時間が近づき、俺たちは連れ立って食堂へ向かった。
昼間は観光を楽しみ、旅館に着いてからも何かと慌ただしかったが、ようやく落ち着いて食事ができそうだ。
食堂には、地元の食材を使った料理が並んでいた。焼き魚に煮物、山菜料理。それに、湯気の立つ鍋まで用意されている。
「わあ、すごいですね! どれも美味しそうです!」
大久保さんが目を輝かせた。
「本当ですね。せっかくの旅行ですし、ゆっくり味わいましょう」
桜場さんも嬉しそうに料理を眺めている。
「お二人とも、食べすぎて動けなくならないようにしてくださいね」
俺が冗談めかして言うと、大久保さんがこちらを向いた。
「近藤くん、それは失礼ですよ。私だって、ちゃんと加減くらいできます!」
「すみません。つい、いつもの調子で言ってしまいました」
「もう。近藤くんまで、私のことを大食いだと思っているんですか?」
「いえ、そういうつもりでは……」
大久保さんが頬を膨らませると、桜場さんがくすりと笑った。
「でも、大久保さん。さっきから料理を見て、ずっと嬉しそうですよ?」
「そ、それは美味しそうだからですよ!」
そんなやり取りをしていると、隣の席に座った猫山さんが俺のほうへ身を寄せてきた。
「先輩」
「ん?」
「さっきから、ずいぶん楽しそうですね」
「みんなで旅行に来てるんだから、楽しいだろ」
「ふーん。私と一緒だから、というわけではないんですか?」
「……お前な」
猫山さんは、いつもの生意気な笑みを浮かべた。
先ほどまでの会話を思い出してしまい、俺は思わず視線をそらす。
旅館へ向かう途中、猫山さんは俺にこう言った。
――だって、先輩が一緒にいてくれたほうが、私、楽しいですから。
あの言葉が、頭から離れない。
いつもの調子でからかってきたわけでもなく、あのときの猫山さんは、どこか素直だった。
だからこそ、余計に気になってしまう。
「……先輩?」
「何でもない。ほら、冷めないうちに食べようぜ」
「はーい」
猫山さんは素直に返事をしたものの、俺の顔を見て、また小さく笑った。
……絶対、何か気づいている。
そう思いながらも、俺は目の前の料理に箸を伸ばした。
***
食事が進むにつれて、食堂はすっかり賑やかになった。
料理の感想を言い合ったり、今日の観光について話したり。普段の職場とは違う雰囲気もあって、自然と会話が弾んでいく。
「ところで、せっかくの温泉旅行ですし、地酒もいただきたいですねえ」
店長が、壁際に置かれた酒瓶を見ながら言った。
「いいですね。私も少しだけいただこうかな」
大久保さんがそう答えると、桜場さんが驚いた顔をした。
「大久保さん、お酒飲むんですか?」
「ええ、たしなむ程度なら。今日は旅行ですし、少しくらいはいいですよね」
「そうなんですね。じゃあ、私もあとで少しだけ……」
そんな二人の会話を聞きながら、佐々木さんが店長に酒を勧めていた。
「店長、こちらのお酒も美味しそうですよ」
「おお、いいですね。せっかくですから、飲み比べてみましょう!」
……嫌な予感がする。
「店長、飲みすぎないでくださいよ。明日もありますからね」
「大丈夫ですよ、近藤くん。私は自分の限界をわかっていますから」
店長は自信満々に言い切った。
その隣で、佐々木さんも頷いている。
「そうそう。今日は楽しく飲みましょう」
「……本当に大丈夫でしょうか」
俺が小さくつぶやくと、猫山さんが楽しそうに笑った。
「先輩、お父さんみたいですよ」
「誰がお父さんだ」
「みんなのことを心配してるところが、です」
「普通に心配するだろ。明日、二日酔いで動けなくなったら困るし」
「ふふっ。先輩は面倒見がいいですね」
「だから、そういう話じゃ……」
反論しかけて、やめた。
猫山さんは、料理を口に運びながら笑っていた。
結局、店長と佐々木さんは地酒を何種類も飲み比べ、すっかり上機嫌になってしまった。
「いやあ、いい旅館ですねえ!」
「本当ですねえ、店長!」
二人とも、さっきから同じようなことしか言っていない。
「店長、そろそろお水を飲んだほうがいいですよ」
「まだ大丈夫ですって!」
そう言って盃を持ち上げた店長の手元が、少し危なっかしい。
佐々木さんも、最初こそ店長を止めていたはずなのに、いつの間にか一緒になって飲んでいた。
そのうち、二人とも椅子に座ったまま、うとうとし始めてしまった。
「……完全に酔い潰れてますね」
俺が呆れていると、大久保さんが苦笑した。
「明日の朝、大丈夫でしょうか……」
「そうですね。お二人が起きてから考えましょう。」
俺が答えると、桜場さんも頷いた。
「そうですね。私も、そろそろ眠くなってきました」
移動や観光で疲れていたのだろう。桜場さんも、さっきから何度かあくびをしている。
「じゃあ、私たちは先に休みましょうか」
「はい。近藤くん、猫山さん、おやすみなさい」
「おやすみなさい、大久保さん。桜場さん」
二人は店長と佐々木さんの様子を気にしつつも、先に部屋へ戻っていった。
俺たちも、それぞれ部屋に戻ることにした。
***
部屋に戻ってから、俺は少しだけくつろいでいた。
窓の外からは、山の夜らしい静けさが伝わってくる。
時計を見ると、午後九時を少し回っていた。
「……寝る前に、温泉に入っておくか」
せっかくの温泉旅館だ。明日の朝も入れるだろうが、夜の露天風呂も楽しんでおきたい。
俺はタオルを用意し、浴衣を整えて部屋を出た。
廊下は、夕食のときとは打って変わって静かだった。遠くから話し声が聞こえるくらいで、ほかの宿泊客もそれぞれの時間を過ごしているようだ。
浴場の前まで来た俺は、入口に掛けられた札を確認した。
男湯。
よし、間違いない。
男湯の時間帯で間違いがないかしっかり確認して、脱衣所へ入った。
服を脱ぎ、身体を洗ってから露天風呂へ向かう。
そこには夜空を見渡せる湯船が広がっていた。
「はあ……」
湯に浸かった瞬間、自然と息が漏れた。
昼間に歩き回った疲れが、じんわりと溶けていく。
山の向こうから吹いてくる風が心地いい。夜空には星が浮かび、湯の音だけが静かに響いていた。
「……最高だな」
こうして何も考えずに過ごす時間も、たまには必要だ。
俺は肩まで湯に浸かり、のんびりと空を眺めた。
その頃、浴場の入口では、旅館の若女将が足を止めていた。
「あら……。しまったわ」
入口の札を見て、若女将は慌てて周囲を見回した。
この旅館では、露天風呂の利用時間が男女で入れ替わる仕組みになっている。
午後九時からは女湯になるはずだった。
ところが、札は男湯のまま。
若女将は、札を掛け替えるのを忘れていたことに気づいたのだ。
「大変! すぐに直さないと……」
慌てて札を裏返し、女湯の表示に直す。
浴場の奥から、かすかに湯の音が聞こえた。
すでに誰かが入っているようだ。
若女将は一瞬迷ったものの、入口から浴場の奥までは距離があり、湯気も立ち込めていて、中の様子まではよくわからない。
「お客様が出てこられたら、きちんとお詫びしないと……」
そうつぶやき、若女将はいったんその場を離れた。
もちろん、露天風呂に浸かっていた俺は、そんなことなど知る由もない。
入る前に札は確認した。間違っているなんて思いもしなかった。
俺は、もうしばらく温泉を楽しむことにした。
***
それから少しして。
脱衣所のほうから、物音が聞こえた。
誰か入ってきたらしい。
俺は特に気に留めず、湯船に浸かったまま目を閉じていた。
やがて、足音が近づいてくる。
「……ふう。やっと入れますね」
聞き覚えのある声がした。
……ん?
今の声、まさか。
嫌な予感がして、俺はゆっくりと目を開けた。
そして。
「…………え?」
「…………えっ?」
露天風呂の入口に立っていたのは、猫山さんだった。
お互いに、数秒ほど固まる。
猫山の顔から、みるみるうちに笑みが消えていった。
「せ、先輩……?」
「いや、待て。違う。これは違うんだ」
「な、何で先輩がここにいるんですか!?」
「それはこっちのセリフだ!」
俺は慌てて顔を背けた。
見ない。とにかく見ない。
視線を空へ向けたまま、必死に状況を整理する。
ここは男湯のはずだ。
入口の札だって、ちゃんと確認した。
なのに、どうして猫山さんがいるんだ?
「せ、先輩、こっち見ないでください!」
「見てない! 見てないから、落ち着け!」
「お、落ち着けるわけないじゃないですか!」
「そりゃそうだろうけど!」
猫山さんの声は、明らかに動揺していた。
いつもなら、こういう場面でも何かしらからかってくるはずなのに、今はそれどころではないらしい。
俺だって同じだ。
こんな状況、どう考えても平常心でいられるわけがない。
「俺、もう出るから! だから、そっちはそのまま――」
「ま、待ってください! 私が出ます!」
「いや、でも……!」
「いいから!」
猫山さんは慌てて入口のほうへ向かった。
だが、急いでいたせいか、濡れた足元が滑った。
「きゃっ!」
「危ない!」
考えるより先に、身体が動いていた。
俺は猫山さんの腕をつかみ、倒れかけた身体を支えた。
どうにか転ぶのは防げた。
……防げたのだが。
「…………」
「…………」
猫山さんの腕を支えたまま、俺たちは一瞬、動けなくなった。
彼女の顔には、驚きと恥ずかしさが入り混じっている。
「せ、先輩……」
「す、すまん! 転びそうだったから、つい!」
俺はすぐに手を離し、できるだけ距離を取った。
「本当にごめん! わざとじゃないから!」
「……わかってます」
猫山さんはうつむいたまま、小さく答えた。
いつもの余裕は、すっかり消えている。
「……あの」
猫山さんが、何か言いかけた。
けれど、俺は自分がここにいること自体が申し訳なくなり、慌てて言葉を重ねてしまった。
「とにかく、俺は先に出るから! 落ち着いたら、ゆっくり出てこいよ!」
そう言い残し、俺は浴場をあとにした。
脱衣所で身体を拭き、服を着る。
心臓が、まだうるさい。
「……何なんだよ、ほんとに」
ようやく落ち着いてきたところで、俺は入口の札を思い出した。
入るときは、確かに男湯だった。
ということは……。
「まさか、札の掛け替え忘れか?」
そう考えれば、辻褄は合う。
俺は深いため息をつき、廊下へ出た。
***
先ほど、戻る途中に若女将さんに会い、「この度は誠に、申し訳ございませんでした!」と謝罪を受けた。
俺は、「大丈夫です」と言って部屋へ戻る途中、廊下の角で猫山さんと鉢合わせた。
「…………」
「…………」
気まずい。
あまりにも気まずい。
猫山さんは浴衣の襟元を整えながら、俺から少しだけ視線をそらした。
「……先輩」
「お、おう」
「今日のこと……」
「わかってる。誰にも言わない」
「……本当ですか?」
「本当だ。そもそも、俺だって好きであんな目に遭ったわけじゃない」
「……それは、そうですけど」
猫山さんは言葉を濁した。
いつもなら、ここで「先輩、私のこと見たかったんですか?」くらいは言ってくるはずだ。
それなのに、今日は妙におとなしい。
俺だって、今は猫山さんの顔をまともに見られない。
「とにかく、俺は本当に何もするつもりはなかった。札が男湯になってたから入っただけだ」
「……はい。私も、女湯の札を見て入ったので……」
「さっき、若女将さんからこちらの不手際があったと謝罪されたよ」
「そうなんですね……」
二人そろって、ため息をついた。
旅館側のミスなのだから、俺たちが責められることではない。そうわかっていても、あの場面を思い出すと、どうにも落ち着かない。
「それに、転びそうになったのも心配だったし」
俺がそう付け加えると、猫山さんは一瞬だけ顔を上げた。
「……助けてくれたことは、ありがとうございます」
「え?」
「転びそうになったとき、支えてくれたじゃないですか。その……あれは、助かりました」
予想外の言葉に、俺は思わず目を瞬かせた。
「いや、あれは当たり前だろ。目の前で人が転びそうになったら、誰だって助けるって」
「……そうですか」
猫山さんは小さくつぶやいた。
それから、何かを考えるように少し黙り込む。
「……でも、先輩がすぐに助けてくれたのは、嬉しかったです」
「…………は?」
「な、何でもありません! 今のは忘れてください!」
猫山さんは急に顔を上げると、早口でそう言った。
そして、逃げるように自分の部屋へ向かっていく。
「ちょ、猫山さん!」
「おやすみなさい、先輩!」
振り返りもせず、猫山さんは廊下の角へ消えていった。
俺は、その背中を呆然と見送る。
「……何なんだよ、ほんとに」
結局、俺はその夜、なかなか寝つけなかった。
***
翌朝。
食堂に集まった俺たちは、朝食を囲んでいた。
「いやあ、昨日は楽しかったですね!」
大久保さんが、焼き魚をほぐしながら言った。
「温泉も気持ちよかったですし、料理も美味しかったですし。最高でした!」
「大久保さん、昨日は部屋に戻ってすぐ寝てましたよね?」
桜場さんが笑う。
「それだけ満足したってことですよ!」
「都合のいい解釈ですね……」
その向かいでは、店長と佐々木さんがぐったりしていた。
「……頭が痛い」
「店長、飲みすぎですよ……」
「佐々木さんも、同じくらい飲んでいたでしょう……」
「……否定できません」
二人とも、昨日の元気が嘘のようだ。
俺は苦笑しながら、味噌汁を口に運んだ。
そのとき、ふと向かい側に座っている猫山と目が合った。
「…………」
「…………」
猫山さんは、すぐに目をそらした。
俺も、つられるように視線を落とす。
……気まずい。
昨日のことを思い出すだけで、妙に落ち着かなくなる。
いつもなら、俺の顔を見るなり何かしらちょっかいをかけてくる猫山さんも、今朝は妙に静かだった。
「猫山さん、どうかしました?」
桜場さんが不思議そうに尋ねる。
「えっ? い、いえ! 何でもありません!」
「そう? なんだか、いつもよりおとなしいから」
「そ、そんなことないですよ!」
猫山さんは慌てて笑顔を作った。
けれど、その直後、また俺と目が合う。
そして、二人そろって目をそらした。
「……?」
大久保さんが首をかしげる。
「お二人とも、何かあったんですか?」
「「何もありません!」」
思わず声が重なった。
食堂が、一瞬だけ静かになる。
そして。
「……ふふっ」
桜場さんが、意味ありげに笑った。
「な、何ですか、その笑いは」
「いえ、別に?」
桜場さんは楽しそうにお茶を飲んだ。
頼むから、余計なことに気づかないでくれ。
俺は心の中で、ひたすら祈るのだった。
***
朝食を終え、荷物をまとめた俺たちは、帰りのバスへと向かった。
旅館の前で若女将に見送られ、バスに乗り込む。
「皆さま、またのお越しをお待ちしております」
そうしてバスが走り出すと、車内にはゆったりとした空気が流れ始めた。
昨日の疲れが残っているのか、大久保さんと桜場さんは早くも眠そうにしている。店長と佐々木さんは、まだ二日酔いから立ち直れていないらしい。
俺は窓の外を眺めながら、昨日のことを思い返していた。
……まさか、あんなことになるとは。
「先輩」
隣から声をかけられた。
振り向くと、猫山さんが立っていた。
「……ここ、座ってもいいですか?」
「え? ああ、もちろん」
俺が荷物をどけると、猫山さんは隣の席に腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
気まずい沈黙が続く。
けれど、猫山さんは意を決したように口を開いた。
「……先輩。昨日のことなんですけど」
「……ああ」
「その……本当に、誰にも言わないでくださいね」
「わかってるって。何度も言ってるだろ」
「何度でも確認したいんです!」
「はいはい」
俺が苦笑すると、猫山さんは少しだけ頬を膨らませた。
「……あと」
「ん?」
「昨日、助けてくれてありがとうございました」
今度は、からかうような笑みもなかった。
猫山さんは窓の外を見ながら、静かに続ける。
「私、あのとき、転ぶと思って……ちょっと怖かったんです。でも、先輩がすぐに支えてくれたから」
「……そっか」
「だから、その……助かりました」
「うん。無事でよかったよ」
俺がそう答えると、猫山さんは小さくうなずいた。
そして、しばらくしてから、こちらをちらりと見た。
「……先輩って、意外と優しいんですね」
「意外とは余計だろ」
「ふふっ。いつもは私に振り回されてばかりですから」
「誰のせいだと思ってるんだよ」
「さあ?」
ようやく、いつもの調子が戻ってきた。
猫山さんは楽しそうに笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「でも……昨日のことは、ちょっとだけ感謝してます」
「ちょっとだけかよ」
「ちょっとだけです」
「素直じゃないなぁ」
「先輩に言われたくありません」
いつもの言い合い。
いつもの距離感。
それなのに、昨日までとは何かが少しだけ違う気がした。
猫山さんは、俺の隣で窓の外を眺めている。
「……先輩」
「今度は何だ?」
「帰るまで、ここにいてもいいですか?」
「……別に、いいけど」
「ありがとうございます」
猫山さんは、そっと笑った。
その笑顔を見て、俺は少しだけ胸が落ち着かなくなった。
山あいの道を抜け、バスはゆっくりと街へ向かっていく。
隣に座る猫山さんは、いつもより静かだった。
けれど、その沈黙は、不思議と嫌なものではなかった。
温泉旅行で起きた、あのハプニング。
できれば、もう二度とごめんだ。
……ただ。
あのとき、猫山さんを助けられてよかったと思っている自分がいるのも、確かだった。
俺は小さく息を吐き、再び窓の外へと目を向けた。
隣から、猫山さんの穏やかな声が聞こえる。
「……先輩」
「ん?」
「今回の旅行、楽しかったですね」
「ああ。そうだな」
「……また、みんなで来たいです」
「そうだな。また来られるといいな」
猫山さんは満足そうにうなずき、窓の外へ視線を戻した。
俺たちはそれ以上、何も話さなかった。
けれど、帰りのバスが街へ近づいていく間、隣にいる猫山さんの存在が、いつもより少しだけ近く感じられた。




