第12話 猫山さんと秋のグルメフェア
温泉旅行から戻って、数日後。
俺たちの職場では、ちょっとした変化が起きていた。
「おお、ずいぶん広くなりましたね!」
店内を見回しながら、大久保さんが感心したように声を上げた。
「本当ですね。前よりも席に余裕がありますし、通路も広くなっています」
桜場さんも、改装された店内を見渡している。
そう。温泉旅行に出かける前から続いていた改装工事が、ようやく終わったのだ。
客席が増え、厨房との動線も見直された。以前よりも動きやすくなったのは、働く側としてもありがたい。
「これなら、忙しい時間帯も少しは楽になりそうですね」
俺がそう言うと、佐々木さんが笑った。
「そうだといいんですけどね。席が増えたぶん、お客様も増えるかもしれませんよ」
「……それは、確かに」
広くなったからといって、仕事が楽になるとは限らない。
むしろ、忙しくなる可能性だって十分にある。
そんなことを考えていると、店長がパンッと手を叩いた。
「皆さん、少しよろしいですか?」
全員の視線が店長に集まる。
「今回の改装で客席を増やせましたので、近いうちにホールスタッフを一人、募集しようと思っています」
「おお、新しい人が入るんですね!」
大久保さんが嬉しそうに言った。
「ええ。今の人数でも営業はできますが、これから忙しくなることも考えると、もう一人いたほうが安心ですからね」
「確かに、ピークの時間帯は手が足りなくなることもありますしね」
俺も頷いた。
人手が増えれば、一人ひとりの負担も減るはずだ。
もっとも、新しい人が入れば、仕事を教える側の負担も増えるのだが。
……まあ、そのあたりは店長がうまく調整してくれるだろう。
「募集の準備はこれから進めます。採用が決まったら、皆さんにも協力していただくことになると思いますので、よろしくお願いします」
「わかりました」
俺たちはそれぞれ返事をした。
そのとき、隣から小さな声が聞こえた。
「先輩」
「ん?」
「新人さんが入ったら、先輩が教育係ですか?」
「さあな。店長が決めることだろ」
「えー、先輩なら安心して任せられると思うんですけど」
「お前、絶対に面倒な仕事を俺に押しつけようとしてるだろ」
「そんなことありませんよ? 私はただ、先輩を信頼しているだけです」
「その顔で言われても説得力がないんだよ」
猫山さんは、いつもの生意気な笑みを浮かべた。
「ひどいですね。私、こんなに先輩を頼りにしているのに」
「はいはい。ありがたいことで」
「もう、先輩ってば」
口では文句を言いながらも、猫山さんは楽しそうだった。
……本当に、調子のいいやつだ。
***
「さて、もう一つ皆さんに相談があります」
店長が、ホワイトボードに向き直った。
「そろそろ秋が近づいてきますよね」
「そうですね。朝晩は少し涼しくなってきましたし」
桜場さんが答えた。
「そこで、秋に向けてお店でイベントを開催したいと思っています」
「イベントですか?」
佐々木さんが聞き返す。
「はい。改装して客席も増えましたし、新しいお客様にも来ていただきたいですからね。季節に合わせたフェアをやってみたいんです」
店長はホワイトボードに、少し大きめの文字で書き込んだ。
――秋のグルメフェア。
「秋のグルメフェア、ですか」
俺は書かれた文字を読み上げた。
「ええ。秋といえば、きのこやさつまいも、かぼちゃなど、美味しい食材がたくさんあります。そういった食材を使った期間限定メニューを用意して、宣伝も行おうと思っています」
「いいですね! 秋の食べ物って美味しいものが多いですもんね!」
大久保さんが、身を乗り出した。
「私、さつまいもが好きです! スイーツもいいですし、料理に使うのもいいですよね」
「大久保さん、もう食べる側の目線になっていますよ」
桜場さんがくすくすと笑う。
「だって、楽しみじゃないですか!」
「まあ、気持ちはわかりますけどね」
俺も苦笑した。
季節限定のメニューというのは、確かに魅力的だ。
ただ、考えるべきことはたくさんある。
「店長、メニューの数はどのくらいを考えているんですか?」
「そうですね。あまり増やしすぎても厨房が大変になりますから、まずは二、三品ほどに絞ろうと思っています」
「それなら、普段のメニューと並行して提供できそうですね」
佐々木さんも頷いた。
「ええ。せっかくのイベントですから、無理のない範囲で、できるだけ多くのお客様に楽しんでいただきたいですね」
店長はそう言って、俺たちを見回した。
「皆さんも、何かいいアイデアがあれば教えてください。メニューだけでなく、店内の飾りつけや宣伝方法についても考えていきたいと思っています」
「わかりました。私も考えてみます」
大久保さんが元気よく返事をした。
「私もです」
桜場さんも続く。
「俺も、できる範囲で案を出してみます」
「ありがとうございます。猫山さんも、よろしくお願いしますね」
「はい! お任せください!」
猫山さんは胸を張って答えた。
その自信満々な様子を見て、俺は少しだけ不安になった。
「……猫山さん、大丈夫か?」
「何ですか、その顔は」
「いや、勢いだけで突っ走らないか心配で」
「失礼ですね。私だって、ちゃんと考えられますよ」
「それならいいけど」
「先輩こそ、変な案を出さないでくださいね?」
「なんで俺が心配されてるんだよ」
俺たちのやり取りを見て、店長が楽しそうに笑った。
「ははは。お二人とも、期待していますよ」
「……はい」
「はい!」
こうして、秋のグルメフェアに向けた準備が始まった。
***
それから数週間。
俺たちは通常の営業をこなしながら、少しずつフェアの準備を進めていった。
試作したメニューの味を確認し、提供にかかる時間を測り、必要な食材の仕入れについても相談する。
店内の飾りつけは秋らしい色合いでまとめ、入口にはフェアの案内を掲示した。
猫山さんも、思っていた以上に真面目に取り組んでいた。
メニューの紹介文を考えたり、店内の飾りつけを手伝ったり。普段の仕事をこなしながら、イベントの準備にも積極的に参加していた。
もちろん、いつも通り生意気なところは変わらない。
「先輩、この紹介文どうですか?」
「どれどれ……」
俺は、猫山さんが書いた文章に目を通した。
「……うん。いいんじゃないか?」
「えっ、珍しいですね。すぐに褒めるなんて」
「お前な。褒めてほしくて聞いたんじゃないのか?」
「それはそうですけど、先輩なら何か文句をつけてくると思っていました」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「私に厳しい先輩?」
「普段のお前の態度を考えてみろ」
「ふふっ。冗談ですよ」
猫山さんは嬉しそうに笑った。
紹介文は、使っている食材の魅力がきちんと伝わる内容になっていた。飾りつけも、派手すぎず、店の雰囲気に合っている。
正直、俺が口を出すところはほとんどなかった。
こういう作業も、ちゃんとできるようになったんだな。
そんなことを考えていると、猫山さんがこちらを覗き込んできた。
「……何ですか?」
「いや、ちゃんと考えてるんだなと思って」
「それ、褒めてます?」
「褒めてるよ」
「なら、素直にそう言ってください」
「今、言っただろ」
「もう。先輩って、褒め方が下手ですね」
そう言いながらも、猫山さんの口元は少し緩んでいた。
そんなやり取りをしながら、準備は着実に進んでいった。
その間、店長からは新しいホールスタッフの募集についても話があった。まだ応募者を募る準備をしている段階らしいが、フェアが終わる頃には募集を始められそうだという。
忙しさが落ち着く日が来るのかどうかは、まだわからない。
ただ、少なくとも今は、目の前の仕事を片づけるしかなかった。
そして、季節は少しずつ秋へと移り変わっていった。
***
秋のグルメフェア、開催当日。
「……おいおい、すごいな」
開店前、入口の様子を確認した俺は思わず声を漏らした。
店の前には、すでに何組かのお客様が並んでいた。
フェアの告知を見て来てくださったのか、それとも改装後の店に興味を持ってくださったのか。
理由はわからないが、少なくとも出だしは好調のようだ。
「皆さん、今日は忙しくなると思います。慌てず、声を掛け合っていきましょう!」
店長がスタッフ全員に声をかけた。
「はい!」
俺たちは一斉に返事をした。
猫山さんは手元のメモを確認し、今日の限定メニューと、それぞれの提供にかかる時間を頭に入れているようだった。
以前なら、忙しくなることを面白がって、俺にちょっかいを出してきたかもしれない。
もちろん、今だって生意気なところは変わらないが、仕事に向き合う姿勢は少しずつ変わってきている。
「先輩」
猫山さんが、メモをしまいながら声をかけてきた。
「ん?」
「今日はよろしくお願いしますね」
「ああ。こっちこそ」
いつものような勝負の宣言が飛び出すかと思っていたので、少し拍子抜けした。
俺の顔を見た猫山さんが、にやりと笑う。
「……なんですか? 何か物足りなさそうですね」
「別に」
「さては、私に勝負を挑まれるのを待っていましたね?」
「そんなわけあるか」
「ふふっ。まあ、今日は負けませんけどね」
「結局やるんじゃねえか」
猫山さんは楽しそうに笑った。
そして、開店時間を迎えた。
「いらっしゃいませ!」
お客様が次々と入店してくる。
改装で増えた席も、少しずつ埋まっていった。
注文が入り、料理が運ばれ、会計を済ませたお客様が帰っていく。その一連の流れが、いつもよりずっと速い。
「近藤くん、こちらのテーブルをお願いします!」
「はい、わかりました!」
大久保さんから声が飛ぶ。
「近藤くん、こちらのお客様のお水をお願いできますか?」
「すぐに行きます!」
桜場さんの声にも応じながら、俺は店内を動き回った。
厨房からは料理が次々と上がってくる。
「秋のきのこパスタ、お願いします!」
「はい、こちらです!」
「かぼちゃのグラタン、二つです!」
「了解です!」
普段の営業とは違い、フェア限定メニューの注文も多かった。
お客様が料理を口に運び、嬉しそうに感想を話している姿が見えると、準備を頑張ってきてよかったと思える。
……まあ、感慨に浸っている余裕は、ほとんどないのだが。
そのとき、ホールの奥から猫山さんの声が聞こえた。
「先輩、少しいいですか?」
「どうした?」
「こちらのテーブル、きのこパスタとグラタンを一緒にご注文いただいたんですけど、グラタンのほうが少し遅れているみたいです」
猫山さんが示したテーブルでは、お客様が料理を待っていた。
「厨房に確認した?」
「はい。グラタンはあと数分で出せるそうです。ただ、パスタはもうできているので、先にお持ちするか、お客様に確認しようと思っています」
「なるほど。じゃあ、俺が厨房からパスタを受け取ってくる。その間に、お客様に一言伝えておいてくれるか?」
「わかりました」
猫山さんはすぐに頷くと、テーブルへ向かった。
「お待たせして申し訳ございません。グラタンがもう少しで出来上がりますので、先にパスタをお持ちしてもよろしいでしょうか?」
落ち着いた声で説明すると、お客様は快く頷いてくれた。
「大丈夫ですよ。先にパスタをお願いします」
「ありがとうございます。すぐにお持ちいたします」
猫山さんは丁寧に頭を下げ、こちらへ戻ってきた。
「先輩、お願いします」
「ああ、任せろ」
俺は厨房からパスタを受け取り、猫山さんと一緒にテーブルへ運んだ。
その後、グラタンも予定どおり提供できたらしい。お客様が笑顔で食事を楽しんでいるのを見て、俺はほっと息をついた。
大きなトラブルではない。
けれど、忙しいときほど、こういう小さな行き違いは起こりやすい。
状況を確認して、必要なことを伝え、周りと連携する。
猫山さんは、それを自分で判断して動けるようになっていた。
「猫山さん、さっきの対応、よかったぞ」
次の仕事に向かう前に声をかける。
「えっ?」
「ちゃんと厨房に確認して、お客様にも説明できてたじゃないか」
「……まあ、それくらいはできますよ」
いつもの調子で返してきたものの、猫山さんの頬は少しだけ緩んでいた。
「先輩に教わりましたからね」
「……お前、そういうことを急に言うなよ」
「ふふっ。照れてます?」
「照れてねえよ。ほら、次の注文が来てるぞ」
「はいはい。わかってますよ、先輩」
猫山さんは笑いながら、次のテーブルへ向かっていった。
その背中を見送り、俺も気持ちを切り替える。
まだまだ忙しい時間は続きそうだった。
***
昼のピークが過ぎた頃。
ようやく店内に少しだけ余裕が生まれた。
「皆さん、お疲れさまです!」
店長が厨房から顔を出した。
「フェア限定メニューも好評ですし、ここまで大きな問題もなく進められています。この調子で、午後もよろしくお願いします!」
「はい!」
全員が返事をする。
俺は一度、肩を回した。
「……疲れた」
思わず本音が漏れる。
「お疲れさまです、先輩」
隣から猫山さんの声がした。
「お前も疲れただろ」
「まあ、少しは。でも、まだ午後がありますからね」
「……急にまともなことを言うなよ」
「失礼ですね。私だって、仕事中はちゃんとしてますよ」
「それは知ってるよ」
何気なく返した言葉に、猫山さんが一瞬だけ目を丸くした。
「……え?」
「ん? 何だよ」
「い、いえ。何でもありません」
猫山さんは慌てて視線をそらした。
その様子が少し気になったものの、すぐに大久保さんが飲み物を持ってきてくれた。
「お二人とも、お疲れさまです。少し水分を取っておいたほうがいいですよ」
「あ、ありがとうございます、大久保さん」
「ありがとうございます」
俺と猫山さんは、それぞれ飲み物を受け取った。
「午後も忙しくなりそうですね」
大久保さんが店内を見渡しながら言った。
「そうですね。でも、これだけお客様に来ていただけると、準備した甲斐があります」
俺が答えると、大久保さんも笑顔で頷いた。
「本当にそうですね。最後まで頑張りましょう!」
「はい!」
短い休憩を終え、俺たちは再び持ち場へ戻った。
午後もお客様は途切れることなく来店し、店内は賑わい続けた。
それでも、スタッフ同士で声を掛け合い、手が空いた人がほかの持ち場を手伝うことで、大きな混乱は起きなかった。
猫山さんも、自分の担当するテーブルだけでなく、周囲の状況を見ながら動いていた。
料理を運び終えたあと、近くで困っているスタッフがいれば声をかける。お客様から質問を受ければ、わからないことを曖昧に答えず、きちんと確認してから説明する。
以前の猫山さんなら、目の前の仕事を片づけるだけで精いっぱいだったはずだ。
もちろん、まだ俺が手を貸す場面もある。
それでも、少しずつ任せられることが増えているのは確かだった。
やがて、フェアの終了時間が近づいてきた。
最後のお客様を見送り、店内を確認する。
「……終わった」
俺は、長く息を吐いた。
「皆さん、お疲れさまでした!」
店長の声が響く。
「お疲れさまでした!」
全員が、それぞれ安堵の表情を浮かべた。
「いやあ、今日は本当に忙しかったですね!」
大久保さんが、疲れた様子ながらも笑顔で言った。
「でも、たくさんのお客様に来ていただけてよかったです」
「そうですね。フェアのメニューも好評でしたし、成功と言っていいんじゃないでしょうか」
桜場さんも嬉しそうだった。
佐々木さんが売上の集計を確認しながら、店長に報告する。
「店長、今日の売上ですが、目標を上回っています。それに、フェアのメニューも予想以上に注文が入りました」
「本当ですか! それはよかった!」
店長の顔がぱっと明るくなった。
「皆さんが準備から頑張ってくれたおかげです。本当にありがとうございます」
店長は、俺たち一人ひとりに頭を下げた。
「いえ、こちらこそ、いい経験になりました」
俺が答えると、ほかのスタッフも頷いた。
大変だった。
正直、途中で何度も疲れたと思った。
それでも、こうして無事に終えられたのなら、頑張った甲斐はあったのだろう。
「先輩」
猫山さんが、俺の隣にやってきた。
「ん?」
「私、今日けっこう頑張ったと思いません?」
「そうだな。よく頑張ってたと思うよ」
「……えっ?」
猫山さんが、きょとんとした顔をした。
「何だよ、その反応」
「い、いえ。今日は素直に褒めてくれるんだなと思って」
「頑張ってたんだから、褒めるだろ」
「……そ、そうですか」
猫山さんは、なぜか少しだけ視線をそらした。
そして、頬をほんのり赤くしながら、小さく笑った。
「……ありがとうございます、先輩」
「おう」
いつものように、何か言い返してくると思っていた。
けれど、猫山さんはそれ以上からかってくることもなく、少しだけ嬉しそうに笑っていた。
……たまには、こういう日もあるらしい。
俺がそんなことを考えていると、猫山さんがこちらを向いた。
「でも、先輩も頑張ってましたよ」
「……お、おう。ありがとな」
「ふふっ。どういたしまして」
今度は、いつもの生意気な笑みだった。
やっぱり、こいつはこうでなくちゃな。
***
後片づけを終え、帰り支度を始める。
改装が終わった新しい店内は、昼間の賑わいが嘘のように静かになっていた。
秋のグルメフェアは、無事に成功した。
そして、近いうちには新しいホールスタッフの募集も始まる。
これから、この店はまた少しずつ変わっていくのだろう。
「先輩、帰りましょう!」
入口で待っていた猫山さんが、俺に声をかけた。
「ああ、今行く」
俺は荷物を持ち、猫山さんのもとへ向かった。
「今日は疲れましたね」
「お前が言うのかよ。最後まで元気だったくせに」
「私だって、疲れるときくらいあります!」
「はいはい」
「もう、また適当に流して!」
猫山さんは頬を膨らませた。
けれど、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「……でも、今日のイベント、楽しかったですね」
「そうだな。忙しかったけど、成功してよかったよ」
「はい。次のイベントも、頑張りましょうね!」
「次があるのかよ……」
「もちろんです! 先輩にも、たくさん働いてもらわないといけませんから!」
「おい、俺を馬車馬のように働かせる気か?」
「当然です!」
猫山さんは楽しそうに笑いながら、先に歩き出した。
俺は小さくため息をつき、その後を追う。
新しくなった店と、これから入ってくるかもしれない新しい仲間。
そして、相変わらず俺を振り回してくる猫山さん。
これから先も、きっと忙しい日々が続くのだろう。
……まあ。
悪くない毎日では、あるのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺たちは秋の夜道を並んで歩いていった。




