第13話 猫山さんの機嫌が悪い
秋のグルメフェアが終わってから、数日が経った。
あれほど慌ただしかった店内にも、ようやくいつもの日常が戻ってきていた。
もっとも、俺にとっては、以前とまったく同じというわけでもない。
「先輩、今日もよろしくお願いしますね!」
「おう。今日も頼むな」
「……あれ? ずいぶん素直ですね」
「何だよ。普通に返事しただけだろ」
「いつもなら『はいはい』で済ませるじゃないですか。もしかして、私の成長を実感して感動してるんですか?」
「そこまでは言ってない」
「そこまで言ってくださいよ。先輩としての自覚が足りないんじゃないですか?」
「お前にだけは言われたくないんだけどな……」
相変わらず、猫山さんは今日も元気だ。
入社したばかりの頃と比べれば、仕事もかなり覚えた。今では忙しい時間帯でも、周りの状況を見ながら動けるようになっている。
後輩の成長を実感できるのは、先輩として素直に嬉しい。
……本人にそれを伝えると、すぐに調子に乗るので言わないけれど。
「二人とも、ちょっといいか?」
開店前の準備を進めていると、店長に呼び止められた。
「はい、なんでしょうか?」
「今日から新しいスタッフが入るのは聞いているな?」
「ああ、はい。もう一人採用するって話でしたよね」
「そうだ。今日は初出勤だから、近藤、お前に教育を頼みたい」
「分かりました」
まあ、そうなるだろうとは思っていた。
俺も入社して三年目になる。新人の指導を任されるのは、別におかしな話ではない。
ところが、店長は俺の隣にいる猫山さんにも目を向けた。
「猫山も一緒について、指導の仕方を勉強しておいてくれ」
「……えっ、私もですか?」
「そうだ。猫山も仕事には慣れてきたが、教えるとなるとまた別の話だからな。近藤がどうやって新人に教えているのか、よく見ておくといい」
「なるほど。つまり、私は今日から教育係見習いということですね」
「まあ、そういうことだ」
「……見習い」
猫山さんは、あからさまに微妙な顔をした。
「なんだ、不満か?」
「いえ! そんなことありません! 勉強熱心な私ですから、もちろん大歓迎です!」
「じゃあ、頼んだぞ」
「……はい」
店長が離れていく。
その背中を見送りながら、猫山さんは小さくため息をついた。
「なんだよ。そんなに嫌なのか?」
「嫌とは言ってません。ただ、私ならもう少し実践的な仕事を任せてもいいと思うんですけど」
「新人の指導も、十分実践的だろ」
「でも、教えるのは先輩ですよね?」
「俺が担当するけど、お前も一緒に見ておけってことだろ」
「分かってますよ。……分かってますけど」
「じゃあ、ちゃんと勉強しろよ。先輩として、いいところを見せるチャンスだ」
「先輩に言われなくても分かってます」
そう言いながらも、猫山さんはどこか不満そうだった。
実際に新人を指導するのは俺で、猫山さんはその様子を見ながら教え方を学べばいい。
ひとまず、そう考えることにして、俺は開店準備に戻った。
***
「おはようございます! 本日からお世話になります、シャロ・ヴォカーチカです! よろしくお願いします!」
開店前のスタッフルームに、明るい声が響いた。
新しく入ったスタッフが、店長に連れられてやってきたのだ。
まず目を引いたのは、その髪だった。
腰のあたりまで伸びた、まっすぐな銀髪。
整った顔立ちに、澄んだ青い瞳。制服を着た姿には、どこか目を引く華やかさがあった。
ロシア系だと聞いていたが、日本育ちということもあって、日本語はとても流暢だった。
「みんな、ちょっといいか」
店長がスタッフルームにいたメンバーに声をかけた。
「今日から一緒に働くことになった、シャロ・ヴォカーチカさんだ。初出勤だから、分からないことがあれば助けてやってくれ」
「はい! よろしくお願いします!」
シャロさんは、改めて背筋を伸ばして頭を下げた。
「佐々木です。よろしく。分からないことがあったら、遠慮なく聞いてね」
「ありがとうございます、佐々木さん!」
「私は大久保です。ホールの仕事で困ったことがあったら、私にも聞いてね」
「はい! よろしくお願いします、大久保さん!」
大久保さんが柔らかく微笑むと、シャロさんも嬉しそうに笑った。
「桜場です。よろしくお願いします。最初は覚えることが多くて大変だと思いますが、焦らず一つずつ覚えていきましょう」
「はい! 頑張ります!」
三人から順番に挨拶を受けたシャロさんは、もう一度ぺこりと頭を下げた。
「皆さん、優しそうな方ばかりで安心しました。これからよろしくお願いします!」
「こちらこそ、よろしくね」
それぞれが笑顔で応じる。
初日の挨拶は、どうやら無事に済んだようだ。
「それから、こっちは近藤雄太。今日からシャロさんの仕事を教える担当だ」
店長に紹介され、俺は一歩前に出た。
「近藤です。よろしくお願いします。分からないことがあったら、遠慮なく聞いてくれ」
「はい! 近藤さんですね。よろしくお願いします!」
シャロさんは、ぱっと明るい笑顔を見せた。
「そして、こちらが猫山真衣さん。入社してまだ一年も経っていないが、ホールの仕事もかなり覚えている。今日は近藤の指導を見ながら、シャロさんのフォローもしてもらう予定だ」
「猫山真衣です。よろしくお願いします!」
猫山さんも、にこやかに挨拶を返した。
「猫山さん、よろしくお願いします! 私、まだ分からないことばかりなので、いろいろ教えてくださいね!」
「はい、もちろんです。困ったことがあったら、いつでも聞いてください」
……おお。
ちゃんと先輩らしいことを言っている。
俺が感心していると、猫山さんがちらりとこちらを見た。
「……何ですか?」
「いや、ちゃんと先輩してるなと思って」
「当たり前じゃないですか。私だって、もう立派な社会人なんですから」
「そうだな」
「その返事、何か含みがありません?」
「気のせいだろ」
「絶対に何か含んでますよね?」
早速、いつもの調子に戻った。
シャロさんは、そんな俺たちのやり取りを見て、くすくすと笑っていた。
「お二人は仲がいいんですね!」
「「よくない!」」
思わず声が重なった。
シャロさんは目を丸くしたあと、さらに楽しそうに笑った。
「ふふっ。やっぱり息ぴったりです!」
「だから、そういうわけじゃないって」
「……シャロさん、そろそろ仕事を始めようか」
「はい!」
俺はこれ以上余計なことを言われる前に、研修を始めることにした。
***
最初は、ホールでの基本的な仕事からだ。
お客様への挨拶、注文の取り方、料理の運び方、テーブルの片付け。
一つずつ説明し、実際に動いてもらう。
「お客様の注文を取るときは、聞き間違いがないように、注文内容を復唱するんだ。特に、名前が似ているメニューには気をつけて」
「はい。復唱ですね!」
「そう。あと、料理を運ぶときは、周りのお客様にも注意してな」
「分かりました!」
返事は元気だし、やる気も十分。
ただ、少しだけ心配なのは、シャロさんが何かを覚えようとすると、目の前のことに集中しすぎるところだった。
説明を聞いている間も、真剣な顔で何度も頷いている。
そのたびに、腰まである銀髪がさらさらと揺れていた。
「じゃあ、次は料理の運び方を練習してみようか」
「はい!」
俺は空のトレーを手に取り、料理を運ぶときの基本を説明した。
「トレーは水平に保つ。歩くときは急がず、前方と足元を確認するんだ。特に、テーブルの角を曲がるときは、向こう側から人が来るかもしれない。一度止まって確認しよう」
「分かりました! 水平にして、前と足元を確認ですね!」
「そう。じゃあ、実際にやってみよう」
シャロさんは空のトレーを持ち、ゆっくりと歩き始めた。
最初は順調だった。
しかし、通路の角に差しかかったところで、向こう側から別のスタッフが歩いてきた。
「あっ……!」
シャロさんは慌てて足を止めた。
その拍子に、トレーを持つ手がわずかに傾く。
「シャロさん、トレー!」
「は、はい!」
俺はすぐに横から手を添え、トレーを水平に戻した。
幸い、トレーを落とさずに済んだ。
「す、すみません……! 人が来ると思わなくて……!」
「今のは、ちゃんと止まれたから大丈夫だ。次はトレーを水平に保ったまま、相手が通り過ぎるのを待てばいい」
「はい……!」
「慌てて動こうとすると危ないからな。迷ったら、まず止まる。それでいい」
俺がそう説明すると、シャロさんは真剣に頷いた。
「分かりました! 次は落ち着いて待ちます!」
「うん。それでいい」
「近藤さんって、優しいんですね!」
「え?」
「失敗しても怒らないで、ちゃんと教えてくれるので。私、もっと怒られると思ってました」
「最初から完璧にできるわけないだろ。少しずつ覚えていけばいいんだよ」
「……はい!」
シャロさんは、嬉しそうに笑った。
その様子を見ていた猫山さんが、すっと俺の隣にやってきた。
「先輩」
「ん?」
「何、鼻の下を伸ばしてるんですか?」
「伸ばしてねえよ!」
「そうですか? ずいぶん嬉しそうに見えましたけど」
「新人が少しずつ仕事を覚えてくれたら、嬉しいだろ。教育係なんだから」
「へえ。新人さんが相手だと、ずいぶん張り切るんですね」
「お前、さっきから何なんだよ……」
猫山さんは、ぷいっと顔を背けた。
「別に。私は指導の勉強をしてるだけですから」
「だったら、今のやり取りから何か学んでくれよ」
「学んでますよ。先輩は新人に甘い、ってことを」
「どこをどう見たらそうなるんだ!」
俺が思わず声を上げると、シャロさんが不思議そうに首を傾げた。
「猫山さん、近藤さんはとても丁寧に教えてくれますよ?」
「……そうですか。よかったですね」
猫山さんは笑顔で答えた。
ただし、目は笑っていなかった。
……何だろう。
今日はやけに当たりが強い気がする。
***
研修を続けていると、今度はシャロさんがメニューを覚える段階に入った。
似た名前の料理がいくつかあるため、最初はメモを見ながら確認していく。
「この二つは名前が似てるけど、使っているソースが違うんだ。注文を受けるときは、メニュー名だけじゃなくて、内容も確認するようにしてな」
「はい! ソースが違うんですね。覚えました!」
シャロさんは勢いよくメモを取った。
その直後、手元が狂ってメモ帳を床に落としてしまった。
「あっ!」
「大丈夫か?」
「す、すみません! せっかく書いたのに……!」
「俺が拾うよ」
俺が屈んでメモ帳を拾おうとすると、シャロさんも同時に屈んだ。
頭がぶつかりそうになり、二人そろって慌てて顔を上げる。
「わっ!」
「おっと!」
シャロさんがバランスを崩しかけたので、俺はとっさに腕を支えた。
「危ない!」
「す、すみません……!」
今度はすぐに体勢を立て直せた。
俺はメモ帳を拾い、シャロさんに手渡した。
「慌てなくていいって。落ち着いて動けば大丈夫だから」
「はい……。ありがとうございます、近藤さん」
シャロさんは、少し恥ずかしそうに笑った。
すると、隣から猫山さんの声が飛んできた。
「先輩」
「……今度は何だよ」
「ずいぶんと距離が近いなあ、と思いまして」
「いや、転びそうになったから支えただけだろ!」
「へえ。そうですか」
「そうだよ!」
「……ふーん」
猫山さんは俺をじっと見たあと、シャロさんに向き直った。
「シャロさん。仕事中に慌てると危ないですから、もう少し落ち着いてくださいね」
「は、はい! すみません……!」
「それから先輩。新人さんを支えるのはいいですけど、ちゃんと周りも見てくださいね。教育係なんですから」
「……はい」
なぜ俺まで怒られているんだ。
いや、教育係として注意されるのは分かる。
分かるけど、何か納得がいかない。
猫山さんはそれ以上何も言わず、すたすたと持ち場に戻っていった。
俺はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
「……今日、機嫌悪いなあ」
「猫山さん、怒ってしまったでしょうか……?」
シャロさんが、不安そうに尋ねた。
「いや、シャロさんが気にすることじゃないよ。あいつ、普段からあんな感じだから」
「そうなんですか……?」
「まあ、そういうことにしておこう」
俺は曖昧に笑った。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
猫山さんは、俺がシャロさんを助けるたびに、不機嫌になっている気がする。
……いや、まさかな。
あの猫山さんが、そんなことで機嫌を悪くするわけがない。
きっと、指導の勉強をするように言われて、気が乗らないだけだろう。
そういうことにしておいた。
***
昼の営業が始まる前、俺たちはここまでの研修内容を振り返ることにした。
「じゃあ、猫山さん。今日、俺がシャロさんに教えたことで、気づいたことはあるか?」
「えっ、私ですか?」
「そうだよ。指導の勉強なんだから、ただ見てるだけじゃ意味がないだろ」
「……なるほど。そういうことですね」
猫山さんは少し考えたあと、腕を組んだ。
「失敗したときに、何が悪かったのかを具体的に説明していましたよね。ただ注意するんじゃなくて、次にどうすればいいかまで教えていたと思います」
「お、よく見てるじゃないか」
「当然です。私、勉強熱心ですから」
「はいはい」
「そこは素直に褒めてくださいよ!」
猫山さんは不満そうに頬を膨らませた。
それから、シャロさんに向き直る。
「シャロさんも、失敗したからって慌てすぎない方がいいですよ。分からないことがあったら、動く前に確認する。私も最初は分からないことだらけでしたから」
「猫山さんも、そうだったんですか?」
「もちろんです。最初から何でもできる人なんていませんから」
猫山さんは、少し得意げに胸を張った。
「だから、焦らず覚えていけばいいと思います。私でよければ、分かることは教えますから」
「猫山さん……! ありがとうございます!」
シャロさんの顔がぱっと明るくなる。
それを見て、俺は思わず感心した。
「へえ。ちゃんと先輩らしいことを言えるようになったんだな」
「……先輩?」
「いや、いいこと言うなと思って」
「ふふん。そうでしょう? 私も、いつまでも教わる側じゃありませんからね」
猫山さんは、得意げに笑った。
少し前まで不満そうにしていたのが嘘のようだ。
これなら、店長が見学を命じた意味もありそうだ。
そう思ったのも束の間。
「ところで先輩」
「ん?」
「シャロさんが分からないことを聞くのはいいですけど、先輩も全部一人で抱え込まないでくださいね。私もいるんですから」
「……おう。頼りにしてるよ」
「……っ」
猫山さんは一瞬だけ目を丸くした。
それから、すぐにいつもの生意気な笑みを浮かべる。
「ま、まあ? 先輩がどうしてもって言うなら、手伝ってあげなくもないですけど?」
「どうしてもとは言ってないだろ」
「そこは言ってくださいよ!」
いつもの調子だ。
ただ、その表情はどこか嬉しそうにも見えた。
***
初日の研修が終わる頃には、シャロさんも少しずつ落ち着いて動けるようになっていた。
もちろん、まだまだ覚えることは多い。
それでも、教えたことをメモに取り、分からないことは自分から質問する姿勢は立派だった。
「今日はありがとうございました、近藤さん! 明日も頑張ります!」
「お疲れさま。明日も焦らず、一つずつ覚えていこう」
「はい!」
シャロさんは深々と頭を下げた。
その拍子に、長い銀髪が肩からさらりと流れ落ちる。
「あっ……!」
「どうした?」
「いえ、髪が前に来ちゃって……。すみません、邪魔ですよね」
「いや、仕事中はまとめておいた方が安全だな。髪が料理や道具に触れたら困るし」
「あっ、そうですよね! 気をつけます!」
シャロさんは慌てて髪をまとめ直そうとしたが、手元がうまくいかず、何度かやり直していた。
「よかったら、髪留めを使うといいんじゃないか? 長い髪だと、その方が仕事もしやすいと思う」
「なるほど! 明日、持ってきます!」
「うん。それがいいな」
「近藤さん、ありがとうございます!」
シャロさんは、にこっと笑った。
その様子を少し離れた場所から見ていた猫山さんが、またもや近づいてくる。
「……先輩」
「今度は何だよ……」
「いえ。ずいぶんとお世話好きなんですね」
「髪が長いと仕事の邪魔になるから、まとめた方がいいって教えただけだろ」
「ふうん?」
猫山さんは、じとっとした目で俺を見上げた。
「先輩って、誰にでもそんなに優しかったでしたっけ?」
「……は?」
思わず聞き返した。
猫山さんは一瞬だけ、しまった、という顔をした。
けれど、すぐにいつもの生意気な笑みを浮かべる。
「なーんて。冗談ですよ、先輩!」
「お前なあ……」
「それより、指導の勉強はちゃんとしてますからね。今日の先輩の教え方、いろいろ参考になりました」
「本当か?」
「もちろんです。……ただ、ちょっと甘すぎる気もしましたけど」
「結局それが言いたいだけだろ!」
猫山さんは、くすくすと笑った。
いつもの調子に戻ったように見える。
けれど、俺がシャロさんの方を向くと、猫山さんの視線もすぐにそちらへ向かう。
そして、シャロさんが俺に笑いかけると、猫山さんはほんの少しだけ口を尖らせた。
……やっぱり、何かおかしい。
だが、理由は分からない。
新人の教育で疲れているのかもしれないし、店長に指導の勉強を命じられたことが気に入らないのかもしれない。
そう考えることにして、俺は片付けを再開した。
その背後で、猫山さんが小さく呟いた。
「……なんか、面白くない」
その声は、誰にも届かなかった。
本人にさえ、なぜそんな気持ちになるのか、まだ分かっていなかったのだから。




