第14話 猫山さんは面白くない
シャロさんが入社して、二日目。
昨日に引き続き、俺は彼女の教育を担当していた。
「近藤さん、これで合っていますか?」
「うん。注文内容も合ってるし、復唱もできてる。その調子だよ」
「本当ですか! やったぁ!」
シャロさんは、ぱっと顔を輝かせた。
昨日はトレーを傾けたり、メモ帳を落としたりと、なかなか目が離せなかったが、今日は少しずつ落ち着いて仕事ができるようになっている。
もちろん、まだ覚えることは多い。
それでも、教えたことを一生懸命に覚えようとしている姿勢は立派だった。
「近藤さんのおかげです! ありがとうございます!」
「いや、シャロさんがちゃんと覚えようとしてるからだよ。俺は教えてるだけだから」
「そんなことありません! 分かりやすく教えてくださるので、すごく助かっています!」
まっすぐな瞳で見上げられ、俺は少し照れくさくなった。
「そ、そうか。ならよかった」
「はい! さすが近藤さんです!」
……なんだろう。
こんなに素直に褒められると、逆に反応に困る。
「先輩」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、猫山さんが笑顔で立っていた。
「何だ?」
「いえ。ずいぶん楽しそうだなあ、と思いまして」
「別に普通だろ。仕事を教えてるだけだよ」
「へえ。仕事を教えてるだけで、そんなに嬉しそうになるんですね」
「嬉しそうって……」
「さすが先輩。新人さんに褒められると、いつも以上に張り切っちゃうんですね!」
にこにこと笑っている。
しかし、どうにも言葉の端々に棘がある気がした。
「お前、何か怒ってる?」
「はい? どうしてそうなるんですか?」
「いや、なんとなく……」
「気のせいですよ。私はただ、教育係の先輩がどんな指導をするのか、勉強しているだけですから」
猫山さんは胸を張った。
「それに、シャロさんも頑張っているんですから、先輩がちゃんと面倒を見てあげないといけませんよね?」
「……まあ、それはそうだけど」
「ですよね! では、引き続き頑張ってください!」
そう言って、猫山さんはくるりと背を向けた。
その足取りは、なぜか少しだけ乱暴だった。
「……猫山さん、何かあったんでしょうか?」
シャロさんが心配そうに尋ねてくる。
「さあ……。昨日からちょっと機嫌が悪い気はするんだけど」
「私、何か失礼なことをしてしまったのでしょうか?」
「いや、シャロさんのせいじゃないと思うよ。気にしなくていいから」
「そうですか……」
シャロさんは小さく頷いた。
俺は猫山さんの背中を見た。
……やっぱり、何かおかしい。
とはいえ、仕事中に問い詰めるわけにもいかない。
ひとまず、目の前の研修に集中することにした。
***
その後も、シャロさんは何かにつけて俺を頼ってきた。
「近藤さん、この料理を運ぶときは、こちら側からでいいんですか?」
「そうだな。お客様の邪魔にならないように、こっちから回ろう」
「分かりました!」
別の場面では、料理を運ぶ途中で少し迷ってしまい、俺が声をかけることもあった。
「シャロさん、そっちは別のテーブルだよ」
「あっ! すみません!」
「大丈夫。伝票をもう一度確認しよう」
「はい! ……あ、こちらですね!」
「正解」
「やった! ありがとうございます!」
シャロさんは失敗しても、教えられたことを素直に受け止め、次に生かそうとしていた。
その前向きさは、教える側としても嬉しいものだった。
……ただ。
「先輩、こっちの片付け、終わりました」
猫山さんが、いつの間にか隣に立っていた。
「おう、ありがとう。助かったよ」
「いえいえ。先輩が新人さんに付きっきりなので、私がやっておきました」
「付きっきりって、教育係なんだから当たり前だろ」
「そうですね。教育係ですもんね」
猫山さんは、にっこりと笑った。
「先輩は教育係。シャロさんは新人。だから、ずーっと一緒にいる。何もおかしくありませんよね?」
「……お、おう」
「よかったです。私、何か勘違いしてるのかと思っちゃいました」
「何を勘違いするんだよ!」
「さあ? 何でしょうね?」
猫山さんは楽しそうに笑うと、そのまま持ち場へ戻っていった。
……絶対、何か言いたいことがあるだろ。
けれど、結局その理由は分からなかった。
昼の営業が落ち着いた頃には、俺はすっかり疲れていた。
新人の教育というのは、思った以上に気を使う。
それでも、シャロさんが昨日よりできることを増やしているのを見ると、悪い気はしなかった。
「近藤さん、今日は昨日より失敗が少なくなりました!」
「そうだな。昨日教えたことも、ちゃんと身についてきてるよ」
「えへへ……。近藤さんに褒めてもらえると、もっと頑張ろうって思えます!」
「ははっ。じゃあ、明日もその調子で頑張ろう」
「はい!」
シャロさんは嬉しそうに笑った。
俺も、そんな彼女を見て自然と笑みがこぼれる。
ただ、それだけの光景だった。
なのに。
「……何がそんなに嬉しいんだか」
少し離れた場所で、猫山さんがぼそりと呟いた。
自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。
***
午後の休憩時間。
俺はスタッフルームで一人、椅子に座ってスマートフォンを眺めていた。
ようやく一息つける。
そう思っていると、扉が開いた。
「……あれ、先輩?」
入ってきたのは、猫山さんだった。
「おう。休憩か?」
「はい。先輩もですか?」
「そうだよ。ちょうど今、休んでたところ」
「そうですか」
猫山さんはそう答えると、俺から少し離れた椅子に座った。
普段なら、ここで何かしら余計な一言が飛んでくる。
ところが、今日は妙に静かだった。
スマートフォンを見ているふりをしていても、何となく視線を感じる。
「……何だよ?」
「何がですか?」
「いや、さっきからこっちを見てない?」
「見てませんけど」
「そうか?」
「そうです」
即答だった。
……まあ、いいか。
俺は再びスマートフォンに視線を落とした。
しかし、数秒後。
「……先輩って」
「ん?」
「新人さんには、ずいぶん優しいんですね」
またそれか。
俺は思わず顔を上げた。
「シャロさんのことか?」
「ほかに誰がいるんですか?」
「いや、教育係なんだから当たり前だろ。まだ仕事に慣れてないんだし」
「分かってますよ。そんなことくらい」
猫山さんは、少し不機嫌そうに頬を膨らませた。
「ただ、先輩って、あんなに付きっきりで教える人だったんだなあって思っただけです」
「そりゃ、初日から一人で仕事をさせるわけにはいかないだろ」
「それはそうですけど……」
そこで言葉が途切れた。
猫山さんは何か言いたそうに口を開きかけ、結局、何も言わずにそっぽを向いた。
「……猫山さん?」
「何ですか」
「今日、やっぱり変だぞ」
「はあ?」
「いや、いつもならもっと堂々と文句を言うだろ。今日は遠回しに嫌味ばっかり言ってるし」
「嫌味なんて言ってません!」
「言ってるだろ」
「言ってません!」
猫山さんは勢いよく立ち上がった。
そして、俺の方へと詰め寄ってきた。
「だいたい、先輩は何なんですか! 人が何を考えているのかも分からないくせに、勝手なことばっかり言って!」
「いや、何でそんなに怒るんだよ……」
「怒ってません!」
「いや、怒ってるだろ」
「怒ってませんってば!」
声が大きくなった。
俺も思わず椅子から立ち上がった。
「……らしくないな」
「……え?」
猫山さんの動きが止まった。
「いつものお前なら、もっとはっきり言いたいことを言うだろ。なのに今日は、ずっと機嫌が悪そうにしてる。何かあるなら、ちゃんと言えばいいじゃないか」
「……っ」
「俺、何かしたか?」
そう尋ねると、猫山さんはぎゅっと拳を握った。
「……先輩は、本当に何も分かってないんですね」
「だから、何がだよ!」
「もういいです!」
猫山さんが、さらにずいっと俺に詰め寄ってきた。
「先輩のばか!」
「はあ!?」
突然の罵倒に、俺は思わず声を上げた。
猫山さんは俺の胸元をつかみ、ぐっと顔を近づけた。
「少しくらい、自分で考えてくださいよ!」
「いや、だから何を――」
「もう、ほっといてください!」
猫山さんは、俺の胸を押した。
「うわっ!」
不意を突かれた俺は、後ろによろめいた。
そのまま足が椅子に引っかかり、体勢を立て直す間もなく床へ倒れ込む。
そして、俺の胸元をつかんだままだった猫山さんも、勢い余って一緒に倒れた。
「ちょ、猫山さん!?」
どさっ、と鈍い音がスタッフルームに響く。
床に倒れた俺の上に、猫山さんがまたがるような格好になっていた。
「…………」
「…………」
猫山さんの片手は、俺の胸元をつかんだまま。
もう片方の手は、倒れた拍子に俺の肩の横についている。
近い。
とにかく、近い。
彼女の顔が、すぐ目の前にある。
いつもの生意気な笑みは消え、猫山さんの顔はみるみる赤くなっていった。
「……ね、猫山さん?」
「なっ……! こ、これは……!」
猫山さんは、自分が俺の上に乗っていることに、ようやく気づいたらしい。
慌てて立ち上がろうとするものの、胸元をつかんだ手に力が入ったままで、うまく体を起こせない。
「ちょ、ちょっと待て! 慌てるなって!」
「慌ててません!」
「いや、慌ててるだろ!」
「先輩が変なことを言うからでしょう!」
「俺のせいなのかよ!?」
俺たちがそんな言い合いをしていた、そのときだった。
ガチャリ。
スタッフルームの扉が開いた。
「失礼しま――」
明るい声が、途中で止まる。
扉の向こうに立っていたのは、シャロさんだった。
彼女は俺たちを見つめ、ぱちぱちと目を瞬かせた。
床に倒れている俺。
その上にまたがっている猫山さん。
そして、二人の顔は、息がかかりそうなほど近い。
「…………」
「…………」
数秒の沈黙。
やがて、シャロさんはそっと微笑んだ。
「あっ……。お邪魔しました」
「ち、違う!」
猫山さんが叫んだ。
「これは違うから! 今のは事故で――!」
「大丈夫です、猫山さん」
シャロさんは、なぜか妙に優しい声で頷いた。
「私、何も見ていませんから」
「いや、見ただろ!」
俺も思わず叫んだ。
しかし、シャロさんは首を横に振った。
「いえいえ。お二人にも、いろいろありますよね」
「ない! 何もないから!」
「そうですか……。でも、お二人って、そんなに仲がよかったんですね」
「「えっ?」」
俺と猫山さんの声が重なった。
シャロさんは、納得したように何度も頷いている。
「普段から仲がいいなあとは思っていましたけど、まさかこんなに親しいなんて……」
「いや、だから違うって!」
猫山さんは顔を真っ赤にしながら、ようやく俺の上から飛び退いた。
俺も慌てて起き上がる。
だが、シャロさんはすでに扉の外へ半歩下がっていた。
「それでは、お二人とも……」
彼女はにこっと笑い、丁寧に頭を下げた。
「ごゆっくりどうぞ」
「シャロさん!?」
俺の声もむなしく、扉は静かに閉じられた。
……行ってしまった。
誤解を解く暇もなく。
「…………」
「…………」
スタッフルームに、気まずい沈黙が落ちた。
猫山さんは真っ赤な顔のまま、俺を睨みつけた。
「……先輩のせいです」
「いや、どう考えてもお前のせいだろ!」
「うるさいです! 忘れてください!」
「忘れられるか! 今のを見られたんだぞ!」
「だから、忘れてくださいってば!」
猫山さんは俺の返事も待たず、勢いよく扉へ向かった。
そして、出ていく直前に振り返る。
「……シャロさんには、絶対に変なことを言わないでくださいね!」
「それ、俺の台詞だろ!」
「知りません!」
ばたんっ。
扉が閉まった。
俺は一人、床から立ち上がり、乱れた服を直した。
「……何なんだよ、今日」
新人の教育で疲れていたはずなのに、休憩時間にまでこんな騒動が起きるとは。
しかも、シャロさんにはとんでもない誤解をされた。
……明日、どういう顔で会えばいいんだ。
その頃。
スタッフルームを出たシャロさんは、廊下を歩きながら、そっと頬に手を当てていた。
「……なるほど」
何かを納得したように、小さく頷く。
「近藤さんと猫山さん……。そういう関係だったんですね」
もちろん、そんな事実はない。
けれど、天然な彼女の中では、すでに確信に変わりつつあった。
「ふふっ。お二人とも、意外と大胆なんですね……!」
シャロさんは楽しそうに微笑み、何も知らないまま仕事場へ戻っていった。
一方、スタッフルームに残された俺は、しばらくその場から動けそうになかった。
……頼むから、明日には忘れていてくれ。




