第15話 猫山さんと仲直り
翌日。
俺は出勤して早々、頭を抱えていた。
原因はもちろん、昨日の出来事だ。
猫山さんに押し倒され、あろうことか、その現場をシャロさんに目撃されてしまった。
しかも、あの天然な新人は、俺と猫山さんが親しい関係なのだと完全に誤解している。
……頼むから、変な噂になっていませんように。
「近藤さん!」
「うおっ!?」
背後から元気な声が飛んできて、俺は思わず肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこにはシャロさんがいた。
「お、おはよう、シャロさん」
「おはようございます!」
相変わらず、朝から元気いっぱいだ。
……いや、そんなことより。
「あのさ、シャロさん。昨日のことなんだけど……」
「昨日のこと、ですか?」
「ほら、スタッフルームで見た……あれ」
俺が気まずそうに言うと、シャロさんは「ああ!」と手を叩いた。
「猫山さんとのことですね!」
「声が大きい!」
「あっ、すみません!」
シャロさんは慌てて口元を押さえた。
周囲を見回すと、幸い、近くにいたスタッフはそれぞれ仕事の準備をしていて、こちらの会話を気にしている様子はなかった。
俺はほっと胸をなで下ろす。
「えっとな、昨日のあれは本当に事故なんだ。俺と猫山さんは、別にそういう関係じゃないから」
「そうなんですか?」
「そうだよ。猫山さんがちょっと感情的になって、それで転んだだけ。別にやましいことは何もない」
「なるほど……!」
シャロさんは真剣な顔で頷いた。
よかった。
これで誤解も解けただろう。
そう思ったのも束の間。
「でも、お二人はとってもお似合いだと思います!」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
「いや、だから付き合ってないって」
「はい! それは分かりました!」
「分かってないだろ!」
シャロさんは不思議そうに首を傾げた。
「だって、猫山さんは近藤さんとお話ししているとき、すごく感情豊かじゃないですか!」
「……そうか?」
「はい! 普段はすごく堂々としているのに、近藤さんとお話ししているときは、怒ったり、照れたり……とっても仲がいいんだなって思います!」
「いや、それは……」
言われてみれば、否定しづらい。
猫山さんは、俺に対して遠慮というものがほとんどない。
そのせいで、毎日のように振り回されているわけだが。
「それに、昨日も猫山さん、すごく顔が赤かったですよね!」
「それは事故だったからだろ……」
「ふふっ。そういうことにしておきます!」
「いや、そういうことなんだって!」
シャロさんは、楽しそうに笑った。
……この子、本当に話を聞いているんだろうか。
「でも、近藤さん」
「ん?」
「猫山さん、昨日は少し悲しそうにも見えました」
「……悲しそう?」
「はい。怒っているようにも見えましたけど、なんだか、近藤さんに分かってほしいことがあるような感じがして」
その言葉に、俺は少し考え込んだ。
昨日の猫山さんは、確かにいつもと違っていた。
普段なら、言いたいことがあれば遠慮なく口にする。
それなのに、昨日は何かを言いかけては、途中でやめていた。
最後には、俺のことを「ばか」とまで罵っていたが……。
「……まあ、何かあったのかもしれないな」
「そうですよね!」
シャロさんは、ぱっと顔を明るくした。
「だから私、お二人が仲直りできるようにお手伝いします!」
「……はい?」
「近藤さんから、猫山さんをお出かけに誘うんです!」
「なんでそうなるんだよ!?」
思わず声が裏返った。
仲直りをするのと、二人で出かけるのとでは、話が違うだろう。
「いやいや、普通に謝ればいいだけだろ!」
「でも、お出かけなら、ゆっくりお話しできますよ!」
「仕事が終わってからでも話せるだろ!」
「お仕事中は忙しいですし、休憩時間も短いですから!」
「それはそうだけど……」
「それに!」
シャロさんは、なぜか得意げに胸を張った。
「お二人は、もっと仲良くなったほうがいいと思います!」
「……シャロさん、俺の話、聞いてる?」
「はい! ちゃんと聞いています!」
満面の笑みだった。
駄目だ。
この子、完全に自分の中で話を進めている。
「とにかく、近藤さん! 頑張ってくださいね!」
「いや、だから……」
「応援しています!」
シャロさんはぺこりと頭を下げると、軽い足取りで持ち場へ向かっていった。
……どうしてこうなった。
俺は額に手を当てた。
仲直りの手伝いをしてくれるのはありがたい。
ありがたいのだが、なぜその方法が二人で出かけることになるんだ。
しかも、相手はあの猫山さんである。
俺をからかうことに関しては、右に出る者がいない生意気な後輩だ。
そんな相手を、わざわざ休日に誘うなんて。
「……はぁ」
考えただけで、ため息が出た。
けれど。
昨日の猫山さんの様子が、どうにも気になっていたのも事実だった。
俺が何か、彼女の気に障ることをしてしまったのだろうか。
もしそうなら、一度きちんと話をしたほうがいいのかもしれない。
……映画に誘って、ちゃんと話をするくらいなら、別にいいか。
そう考えた自分に、俺は少しだけ驚いた。
***
その日の仕事も、なんとか無事に終わった。
シャロさんは相変わらず少しおっちょこちょいだったが、昨日よりも確実に仕事を覚えている。
教育係としては喜ばしいことだ。
……ただ、休憩のたびにシャロさんから期待に満ちた視線を向けられたのは、少々落ち着かなかった。
どうやら、俺が猫山さんを誘うのを本気で待っているらしい。
そして、営業終了後。
着替えを済ませてスタッフルームを出た俺は、廊下の向こうに猫山さんの姿を見つけた。
「……猫山さん」
「はい? 何ですか、先輩」
猫山さんは振り返った。
いつもと変わらない、少し生意気そうな顔。
昨日の騒動が嘘のようだ。
……いや、今朝からずっと、俺が妙に意識しているだけなのかもしれない。
「あー、その……ちょっといいか?」
「何ですか? 改まって」
「いや、少し話があってさ」
「ふうん?」
猫山さんは、不思議そうに俺を見た。
俺は一度息を吸い、意を決して口を開いた。
「今度の休み、よかったら一緒に映画でも見に行かないか?」
「…………は?」
猫山さんの表情が固まった。
そして、数秒後。
「……先輩?」
「お、おう」
「今、何て言いました?」
「だから、今度の休みに映画でもどうかなって」
「…………」
猫山さんは、じっと俺の顔を見つめてきた。
……何だよ。
そんなに驚くことか?
「……どうしてですか?」
「え?」
「どうして、私を誘うんですか?」
思ったよりも真剣な声だった。
俺は少しだけ戸惑った。
どうして、と聞かれても。
「……昨日のことがあっただろ」
「昨日?」
「ほら、スタッフルームで。お前、かなり怒ってただろ?」
「…………」
「俺が何か気に障ることをしたんだろうし、そのお詫びも兼ねてさ。二人でゆっくり話せる時間があったほうがいいかなって」
そう答えると、猫山さんは目を伏せた。
「……そういうことですか」
「うん。嫌なら無理にとは言わないけど」
「…………」
しばらく、沈黙が続いた。
断られるだろうか。
そもそも、映画に誘うという選択自体が間違っていたのかもしれない。
そんなことを考え始めたとき。
「……あの」
猫山さんが、小さな声を出した。
「昨日のことは……私も悪かったです」
「え?」
「急に怒って、先輩を押し倒したりして……。その、すみませんでした」
猫山さんは、俺から目をそらした。
耳まで、ほんのり赤くなっている。
昨日はあれほど怒っていたのに、今度は素直に謝ってくれるとは。
少し意外だった。
「いや、俺も言い方が悪かったよ。ごめんな」
「……別に、先輩が謝ることじゃないですけど」
「そうか?」
「そうです」
猫山さんは小さく頷いた。
それから、ちらりと俺を見る。
「……それで」
「ん?」
「映画、ですよね」
「ああ。都合が悪かったら、別の日でもいいけど」
「……行きます」
「え?」
「だから、行きますって言ってるんです!」
猫山さんは、少しだけ声を大きくした。
「せっかく先輩が誘ってくれたんですから、付き合ってあげます!」
「いや、別に無理しなくても……」
「無理なんてしてません!」
「そ、そうか」
「そうです!」
猫山さんは、ぷいっと顔を背けた。
けれど、その横顔はどこか嬉しそうに見えた。
……気のせいだろうか。
「じゃあ、詳しい時間はあとで連絡するよ」
「はい。分かりました」
そう答えた猫山さんは、少し間を置いてから、くるりとこちらを向いた。
そして。
「……ふふっ」
何やら、意味ありげに笑った。
「何だよ?」
「いえ、別に?」
「いや、絶対何かあるだろ」
「だって、先輩から誘ってくれるなんて思っていなかったので」
「だから、お詫びだって言っただろ」
「はいはい。そういうことにしておきますね」
猫山さんは、にこにこと笑っている。
……嫌な予感がする。
こういう顔をしているときの猫山さんは、ろくなことを考えていない。
そして、その予感は的中した。
「それじゃあ、先輩」
「ん?」
猫山さんは、少しだけ顔を近づけた。
「デート、楽しみにしてますね!」
「はあ!? デートじゃないだろ!」
「えー? 休日に二人で映画を見るんですよ? これをデートと言わずに、何と言うんですか?」
「だから、お詫びだって!」
「はいはい。分かってますよ、先輩」
まったく分かっていない顔だった。
「ふふっ。それじゃあ、お先に失礼します!」
「おい、猫山さん!」
呼び止める間もなく、猫山さんは楽しそうに手を振りながら歩いていった。
俺は、その場に取り残された。
「……あいつ、絶対わざとだろ」
そう呟いたものの、さっきの赤い耳が頭から離れなかった。
……いや、考えるのはやめよう。
これは、あくまで仲直りのためのお出かけなのだから。
そう自分に言い聞かせ、俺も帰路についた。
***
実は、そのやり取りを廊下の曲がり角から、こっそり見ていた人物がいた。
シャロさんである。
「…………」
彼女は、二人のやり取りを思い返しながら、そっと口元に手を当てた。
近藤さんから、猫山さんを映画に誘った。
猫山さんは最初こそ驚いていたものの、最後には嬉しそうに笑っていた。
そして、別れ際には――。
『デート、楽しみにしてますね!』
……聞き間違いではない。
確かに、猫山さんはそう言っていた。
「……やっぱり」
シャロさんは、小さく頷いた。
「あのお二人、やっぱりお互いのことが好きなんですね……!」
もちろん、近藤も猫山も、そんなことを認めた覚えはない。
けれど、シャロさんの中では、二人の関係はすっかり恋人同士の一歩手前になっていた。
「ふふっ。お二人とも、素直じゃないんですから!」
彼女は楽しそうに微笑んだ。
「これからも、陰ながら応援しないといけませんね!」
……いや、応援するのはいいのだが。
できれば、こっそり見守るだけにしてほしい。
もっとも、そんなことを知る由もないシャロさんは、二人の次の休みが待ち遠しくて仕方がなかった。
一方その頃。
家に帰った俺は、スマートフォンを手に、次の休みの予定を確認していた。
「……映画、何を見ればいいんだ?」
そもそも、猫山さんと二人で出かけること自体、ほとんど経験がない。
……いや、だからこれはデートじゃない。
仲直りのためのお詫びだ。
そう何度も自分に言い聞かせながら、俺は映画館の上映スケジュールを調べ始めた。
――次の休みが、少しだけ落ち着かない。




