第7話 猫山さん初めてのミス
猫山真衣が入社してから、そろそろ三週間が経とうとしていた。
今では一通りの仕事をこなせるようになり、俺がいちいち指示を出さなくても、自分で考えて動ける場面が増えている。
後輩の成長というのは、なかなか嬉しいものだ。
……ただし。
「近藤先輩、おはようございます!」
「おう、おはよう」
「今日もよろしくお願いしますね。頼りにしてますよ、先輩♪」
「お前、もう大抵の仕事はできるだろ」
「はい! でも、先輩を頼ることと仕事ができることは、別問題ですから」
「どういう問題だよ……」
「もちろん、先輩で遊ぶことです!」
「遊ばないで仕事しろ」
朝からこれである。
仕事を覚えてくれたのはありがたいが、俺への態度まで成長している気がする。
いや、むしろ悪化しているのではないだろうか。
「ほら、そろそろ開店準備を始めるぞ」
「はーい。今日も頑張りましょうね、先輩」
猫山さんは楽しそうに笑うと、自分の持ち場へ向かっていった。
俺も気持ちを切り替え、開店の準備に取りかかった。
***
昼時。
店内は、いつもどおりの賑わいを見せていた。
来店するお客様を案内し、注文を受け、料理を運ぶ。
落ち着いているときなら何でもない仕事も、注文が重なれば忙しさは一気に増す。
「近藤先輩、三番テーブルのお客様からご注文いただきました!」
「了解。伝票は?」
「こちらです!」
猫山さんから伝票を受け取った俺は、厨房に注文を伝えた。
忙しさもあって、伝票の細かい部分までは確認していなかった。
「三番テーブル、ハンバーグセット一つです!」
「はいよ!」
厨房から返事が返ってくる。
「お願いします!」
猫山さんは元気よく返事をすると、すぐに次の仕事へ向かった。
動きに迷いはない。
少し前までなら、注文を受けたあとに伝票を何度も見直していたのだが、今ではずいぶんと手際がよくなっている。
これなら、もう一人前と言ってもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は次の仕事へ取りかかった。
その後も、店内の忙しさはしばらく続いた。
俺が料理を運び終え、空いたテーブルを片づけていると、厨房のほうから声が飛んできた。
「近藤! ちょっと確認してくれ!」
声の主は佐々木さんだった。
「どうしました?」
「三番テーブルの注文なんだけど、伝票にはハンバーグセットって書いてあるのに、お前が伝えてきた注文と合ってない気がするんだよ」
「えっ?」
俺は手を止めた。
「俺、ハンバーグセットって伝えましたけど……」
「いや、俺の記憶違いかもしれないが、伝票を見たらチキンソテーのセットになってるんだ」
差し出された伝票を確認する。
確かに、そこにはハンバーグセットと書かれていた。
佐々木さんの記憶が正しければ、伝票の記入ミスということになる。
「……俺も、伝票をちゃんと確認してなかったな」
思わず苦笑する。
注文を受けたスタッフの名前を確認すると、そこには猫山さんの名前があった。
「俺が確認してきます」
そう答え、俺はホールへ戻った。
猫山さんは、ちょうど別のお客様のテーブルを片づけているところだった。
「猫山さん、ちょっといいか?」
「はい。どうしました?」
「さっきの三番テーブルの注文なんだけど、ハンバーグセットで合ってるか?」
「えっ……」
猫山さんの手が止まった。
彼女は少し考えるように目を伏せ、それから手元の伝票を確認した。
「あ……」
小さな声が漏れる。
「すみません。私、チキンソテーのセットを頼まれたのに、伝票にはハンバーグセットって書いてます……」
「そっか。注文を受けたときに、書き間違えたんだな」
「はい……。申し訳ありません」
猫山さんの表情から、いつもの余裕が消えていた。
普段なら、何かあっても冗談を交えて返してくる彼女が、今はまっすぐ伝票を見つめている。
「とりあえず、今から正しい注文を確認しよう。料理が出る前に気づけたから、まだ大丈夫だ」
「でも、厨房の方にも手間をかけてしまって……」
「それはあとで一緒に謝ろう。まずはお客様の注文を間違いなく確認することが先だ」
「……はい」
猫山さんは小さくうなずいた。
俺たちは三番テーブルへ向かい、注文内容を改めて確認した。
お客様に事情を説明してお詫びすると、幸い、快く了承してもらえた。
厨房にも正しい注文を伝え直し、佐々木さんにも二人で謝った。
「気をつけてくれよ。忙しいときほど、確認が大事だからな」
「本当にすみませんでした!」
猫山さんは深く頭を下げた。
「俺も伝票をきちんと確認していなかった。次からはお互い気をつけよう」
「……はい」
そう答えた猫山さんの声は、いつもより小さかった。
こうして、注文の間違いは大きな問題になることなく収まった。
……収まった、はずだった。
その後も仕事は続いたが、猫山さんはどこかぎこちなかった。
注文を受けるたびに伝票を何度も見直し、いつもより慎重に動いている。
それ自体は悪いことではない。
けれど、さっきまでの自信に満ちた様子とは明らかに違っていた。
笑顔も、どこか無理をしているように見える。
俺が声をかけようとしても、猫山さんはすぐに次の仕事へ向かってしまう。
……気にしているんだろうな。
初めてのミスなら、なおさらだ。
俺も新人の頃、注文を間違えて先輩と一緒にお客様へ謝ったことがある。
そのときは、もう二度と失敗したくないと思ったものだ。
だからこそ、猫山さんが必要以上に自分を責めていないか、少し気になった。
***
昼のピークが過ぎ、店内が落ち着いてきた頃。
俺は食器を片づけていた猫山さんに声をかけた。
「猫山さん。ちょっと裏を手伝ってくれるか?」
「……はい。わかりました」
返事はいつもどおりだった。
ただ、声に元気がない。
俺たちは、補充用の備品を置いてあるバックヤードへ向かった。
棚には紙ナプキンや持ち帰り用の容器が並んでいる。ホールの喧騒も、ここまでは少し遠く聞こえた。
「えっと、何をすればいいですか?」
猫山さんが棚を見回しながら尋ねる。
「備品の残りを確認してほしいんだ。……その前に、ちょっと話してもいいか?」
「話、ですか?」
「ああ。さっきのことなんだけど」
その瞬間、猫山さんの表情がこわばった。
「……すみませんでした!」
「いや、また謝らせたいわけじゃないよ」
「でも、私が間違えたせいで……」
「うん。それはそうだな。だから、次から気をつければいい」
できるだけ穏やかに伝えたつもりだった。
けれど、猫山さんはうつむいたまま、何も答えなかった。
「猫山さん?」
「……大丈夫です」
小さな声だった。
「もう、次からは絶対に間違えません」
「そっか。なら――」
「だから、大丈夫です」
今度は、さっきよりも少し強い声だった。
俺は言葉を止めた。
猫山さんはうつむいたまま、ぎゅっと両手を握りしめていた。
「……私、もう仕事は覚えたつもりだったんです」
ぽつりと、彼女が言った。
「一通りのことはできるようになったし、先輩に何度も確認しなくても、自分で動けるようになって……。だから、もう大丈夫だって思ってたんです」
「うん」
「なのに、こんな簡単な間違いをして……。厨房の人や、お客様にも迷惑をかけて……」
声が少しずつ震えていく。
「私、間違えないように……気をつけていたのに……」
最後の言葉は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
猫山さんは唇を噛み、顔を背けた。
その頬を、一筋の涙が伝っていった。
「……え?」
俺は思わず目を見開いた。
猫山さんが、泣いている。
いつも生意気なことを言って、俺の反応を見ては楽しそうに笑っている、あの猫山さんが。
俺は何を言えばいいのかわからず、しばらく立ち尽くしてしまった。
「……ごめんなさい」
猫山さんは慌てて手の甲で目元を拭った。
「ごめんなさい。こんなつもりじゃ……」
「いや、謝らなくていいから」
「でも……っ」
もう一度、涙がこぼれた。
彼女はそれを隠そうとするように、うつむいて顔を覆った。
「……自分が許せないんです」
震える声が、静かなバックヤードに落ちる。
「先輩に教えてもらって、できることも増えて……。もう、迷惑をかけないように頑張ろうって思ってたのに……」
「……うん」
「なのに、結局、先輩に助けてもらって……。私、全然一人前じゃないんだなって……」
そこで、言葉が途切れた。
猫山さんの肩が小さく震えている。
いつも自信満々に見える彼女も、仕事を覚えようと必死だったのだ。
できることが増えたからこそ、できなかった自分が許せない。
俺には、その悔しさが少しだけわかる気がした。
「猫山さん」
「……はい」
「こっちを見なくてもいいから、聞いてくれ」
俺は、できるだけゆっくりと言葉を選んだ。
「今日のミスは、確かに確認不足だった。そこは、ちゃんと反省したほうがいい」
猫山さんの肩が、ぴくりと動いた。
「でもな。一度ミスをしたからって、今まで覚えてきた仕事ができなくなるわけじゃないだろ?」
「……っ」
「お前がこの三週間で覚えたことは、全部本当だよ。お客様を案内できるようになったことも、注文を受けられるようになったことも、自分で周りを見て動けるようになったことも。今日の失敗一つで、それがなくなるわけじゃない」
猫山さんは、顔を覆ったまま黙っていた。
「俺だって、新人の頃に注文を間違えたことがある。先輩と一緒にお客様に謝って、次からは伝票を指差して確認するようにしたんだ」
「……先輩も、そんな失敗を?」
「そりゃするよ。俺だって最初から何でもできたわけじゃないからな」
「……そう、なんですね」
「だから、今日のことは反省して、次に生かせばいい。今回のミスで、お前が三週間かけて覚えたことまで否定する必要はないんだよ」
猫山さんは、顔を覆っていた手をほんの少しだけ下げた。
「……でも、私……」
「うん」
「……悔しいです」
「ああ」
「ちゃんとできるようになりたかったんです……」
「……そっか」
俺は、それ以上、簡単に励ますような言葉を重ねるのをやめた。
悔しいものは悔しいのだろう。
頑張ってきたからこそ、失敗した自分が許せない。
なら、今は無理に元気づけるより、ちゃんと気持ちを吐き出させたほうがいい。
「……今は、泣いててもいいよ」
「……え?」
「ここには俺しかいないし。落ち着くまで、少し休んでいこう」
猫山さんは、驚いたように顔を上げた。
涙で潤んだ目が、まっすぐ俺を見つめる。
「……先輩、怒らないんですか?」
「ミスについては、さっき話しただろ。次から気をつければいいって」
「でも……」
「それに、泣くくらい悔しいってことは、それだけ真剣に仕事を覚えようとしてたってことだろ。俺は、それまで否定するつもりはないよ」
猫山さんの目から、また涙がこぼれた。
今度は慌てて隠そうとはせず、彼女は小さく顔を伏せた。
「……ありがとうございます」
かすれた声だった。
「……ごめんなさい。もう少しだけ……」
「いいよ。急がなくていいから」
俺はそう答え、彼女が落ち着くのを待った。
しばらくの間、バックヤードには小さな嗚咽だけが響いていた。
俺は何か気の利いたことを言おうともせず、ただそばにいた。
やがて、猫山さんの呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
彼女は備え付けのペーパータオルで目元を押さえ、何度か深呼吸をした。
「……すみません。もう、大丈夫です」
「そっか」
「……恥ずかしいところ、見られちゃいましたね」
猫山さんは、困ったように笑った。
目元はまだ赤い。
いつもの余裕たっぷりな笑顔とは、ずいぶん違っていた。
「恥ずかしいところなんて、今更だろ」
口にしてから、俺は余計なことを言ったと気づいた。
……そういえば、入社初日に着替えを見てしまったんだった。
「……先輩、今、変なこと考えました?」
「いや、別に何も考えてないけど!?」
「本当ですか? 顔に出てますよ」
「出てない!」
「ふふっ。先輩のえっち」
「いや、そういう話じゃないだろ!」
「冗談です。もう気にしてませんから」
「お前な……」
ようやく、いつものやり取りが少しだけ戻ってきた。
俺はほっと息をつく。
「……猫山さん」
「はい?」
「今日のこと、誰かに言いふらしたりはしないから。安心しろ」
猫山さんは、少し驚いた顔をしたあと、ゆっくりとうなずいた。
「……ありがとうございます。そうしてもらえると、助かります」
「おう。俺は、後輩の泣き顔を面白おかしく話す趣味はないからな」
「……それは、信じてます」
その言葉は、思ったよりも素直だった。
俺は少し照れくさくなり、視線をそらした。
「よし。そろそろ戻ろうか。無理そうなら、もう少し休んでてもいいぞ」
「いえ、大丈夫です。ちゃんと仕事に戻れます」
猫山さんは目元をもう一度拭い、背筋を伸ばした。
「今度こそ、同じミスをしないようにします」
「うん。それでいい」
俺たちはバックヤードを出て、それぞれの持ち場へ戻った。
猫山さんの目元には、まだ少し赤みが残っていた。
それでも、彼女はいつものようにお客様へ笑顔で接していた。
……強い子だな。
そう思う一方で、無理をしていないか少し心配にもなった。
だからといって、ずっと気にかけているわけにもいかない。
俺は俺の仕事をこなしながら、必要なときには手を貸せるようにしておくことにした。
***
その日の仕事も、無事に終わった。
着替えを済ませ、店を出る準備をしていると、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、猫山さんからメッセージが届いていた。
『先輩、今日はありがとうございました!』
俺は少し考えてから返信した。
『お疲れ。今日は大変だったな。でも、次から気をつければ大丈夫だよ』
すぐに既読がついた。
『はい! 同じミスをしないように気をつけます!』
そこまでは、真面目なやり取りだった。
しかし、続けてもう一通届く。
『それと、今日の先輩はちょっとかっこよかったです♪』
「……まだ言うか」
俺は思わず苦笑した。
わざわざメッセージでも言ってくるとは。
……いや、待て。
今日、あいつは俺の前で泣いたのだ。
いつもなら絶対に見せないような顔を見せて、あんなふうに本音まで話してくれた。
それなのに、最後にはいつもの調子で俺をからかってくる。
……本当に、調子が狂う後輩だ。
俺は返信を打った。
『はいはい。明日もよろしくな』
すると、すぐに返事が来た。
『はい! 明日もよろしくお願いします、近藤先輩♪』
俺はスマートフォンをポケットにしまった。
猫山さんは、少しずつ仕事を覚えている。
今日の失敗も、きっと次につながるだろう。
先輩として、これからも見守っていけばいい。
……ただ。
今日、あんなふうに泣いていた姿を思い出すと、少しだけ胸がざわついた。
普段は生意気で、俺をからかってばかりの後輩。
そんな彼女が、誰にも見せたくなかった弱さを、俺には見せてくれた。
それを特別なことだと思うのは、先輩として当然なのだろうか。
「……まあ、いいか」
俺は小さくつぶやき、帰り道を歩き出した。
明日になれば、きっとまた、いつもの猫山さんが俺をからかってくる。
そう思うと、少しだけ安心している自分がいた。




