第6話 猫山さんもう一人前?
新人の猫山真衣が入社してから、数日が経った。
最初の頃は、仕事の手順を確認するために何度も俺のところへやって来ていた彼女も、今では一通りの業務を覚えつつある。
もちろん、まだ完璧というわけではない。
注文が重なれば少し慌てることもあるし、細かなルールを確認するために社員用のマニュアルを開いている姿も見かける。
それでも、入社初日と比べれば大きな進歩だった。
そして今日も、俺はいつもどおりホールの持ち場に立っていた。
「近藤先輩、おはようございます!」
「おう、おはよう」
出勤してきた猫山さんが、いつもの笑顔で挨拶をする。
「今日は何か確認しておくこと、ありますか?」
「いや、今のところは特にないな。昨日までに教えたことを一通りできれば問題ないぞ」
「えー、もう教えてくれることはないんですか?」
「お前、ほとんどの仕事を覚えただろ」
「そうですけど。先輩に構ってもらえる機会が減るのは、ちょっと寂しいですね」
「……朝からそういうことを言うな」
「ふふっ。先輩、照れてます?」
「照れてない。ほら、準備するぞ」
「はーい♪」
猫山さんは楽しそうに返事をすると、自分の持ち場へ向かっていった。
まったく。
仕事を覚えてきたのはいいことだが、俺をからかう余裕まで身につけなくていいんだぞ。
そんなことを考えながら、俺は開店の準備を進めた。
***
開店後、店内は昼に近づくにつれて少しずつ忙しくなっていった。
俺がテーブルの片づけを終え、次の仕事に取りかかろうとしたときだった。
「いらっしゃいませ! 二名様ですね。こちらのお席へどうぞ」
猫山さんが、来店したお客様を席へ案内していた。
声の大きさも、言葉遣いも問題ない。
お客様が席に着いたのを確認すると、彼女は軽く一礼して持ち場へ戻っていく。
そのまま次の仕事に取りかかり、空いたテーブルを確認して片づけ始めた。
少し前までは、案内を終えるたびに俺のところへ来て、次に何をすればいいのか確認していたのに。
今では、自分で状況を見て判断できるようになっている。
俺が教えたことを、ちゃんと自分のものにしているらしい。
……なんだ。
やればできるじゃないか。
別に俺が特別なことを教えたわけじゃない。
マニュアルに書いてあることを説明して、実際にやってみせて、あとは本人が覚えられるように手伝っただけだ。
それでも、自分が教えた後輩が一人で仕事をこなしているのを見ると、悪い気はしなかった。
「近藤くん」
声をかけられて振り返ると、桜場さんがトレーを持って立っていた。
「猫山さん、だいぶ慣れてきたね」
「そうですね。最初に比べれば、かなり動けるようになりました」
「教えるのも大変だったんじゃない?」
「最初は覚えることも多かったですけど、猫山さんは仕事を覚えるのが早かったので、助かりましたよ」
「ふふっ。頼もしくなったね」
「ええ。もう俺がつきっきりで教える必要もなさそうです」
そう答えながら、俺は猫山さんのほうへ視線を向けた。
彼女は注文を受けたあと、伝票の内容を確認してから厨房へ伝えに行っている。
動きに迷いがなくなってきた。
これなら、俺がいちいち隣についていなくても大丈夫そうだ。
「近藤くんも、ちゃんと先輩をやってるじゃない」
「いや、俺は普通に教えていただけですよ」
「そういうのが大事なんだよ」
桜場さんは笑って、別のテーブルへ向かった。
俺も自分の仕事に戻る。
新人が仕事を覚える。
それは、職場にとって喜ばしいことだ。
猫山さんが一人で仕事をこなせるようになれば、店全体も回りやすくなる。
先輩としても、これ以上嬉しいことはない。
……ないはずだった。
ふと気づけば、さっきから猫山さんは一度も俺のところへ質問に来ていない。
以前なら、何か一つ作業を終えるたびに「次は何をすればいいですか?」と聞きに来ていた。
それが今では、自分で考えて、次の仕事へ移っている。
当たり前のことだ。
仕事を覚えたのだから、いつまでも俺に頼りきりというわけにはいかない。
わかっている。
わかっているのだが……。
「……まあ、いいことだよな」
俺は小さくつぶやいて、目の前の仕事に集中することにした。
***
昼のピークが過ぎ、店内が少し落ち着いてきた頃。
俺がテーブルの調味料を補充していると、猫山さんが空いた食器をまとめて戻ってきた。
「近藤先輩、これ、下げてきました」
「おう。ありがとう」
「あと、七番テーブルのお客様からお水のおかわりを頼まれたので、もう持っていきました」
「了解。助かるよ」
「それから、入口のメニューが少しずれていたので直しておきました」
「……お、おう」
次々と報告され、俺は思わず手を止めた。
「何ですか?」
「いや。ちゃんと周りを見て動けるようになったんだなと思って」
「それはもちろん。私、優秀ですから♪」
猫山さんは胸を張った。
「自分で言うな、自分で」
「だって、先輩のおかげで成長しましたから」
「……そうか」
予想していなかった言葉に、少しだけ返事が遅れた。
猫山さんは、そんな俺の顔をじっと見つめてくる。
「おや? どうしました?」
「いや、素直にお礼を言われると思ってなかったから」
「失礼ですね。私だって、お礼くらい言いますよ?」
「普段の行いを振り返ってみろ」
「普段の私は、先輩と仲良くしているだけですけど?」
「その解釈は初めて聞いたぞ……」
猫山さんは楽しそうに笑った。
いつもどおりのやり取り。
けれど、彼女の仕事ぶりを見ていると、以前とは少し違うことに気づく。
もう、何かあるたびに俺を頼ってくるわけではない。
自分で考えて、判断して、動けるようになっている。
それは喜ぶべきことだ。
俺だって、後輩が成長するのは嬉しい。
……ただ、ほんの少しだけ。
「猫山さん」
「はい?」
「もう一通りの仕事は覚えたし、これからは自分で判断できることも増えてくると思う。もちろん、わからないことがあったら聞いてくれていいからな」
「……はい」
猫山さんは、少しだけ真面目な顔でうなずいた。
「今まで教えてくれて、ありがとうございました」
「お、おう。どういたしまして」
思ったよりも素直なお礼だったので、俺は少し気恥ずかしくなった。
なんだか、ちゃんと先輩らしいことを言えた気がする。
……いや、実際に教えていたんだから、先輩らしいことをしていたのは間違いないのだが。
そんなことを考えていると、猫山さんが顔を上げた。
「でも、先輩」
「ん?」
「私、まだまだわからないこともありますし、困ったときは頼りにしてもいいんですよね?」
「もちろんだ。何かあったら遠慮なく聞いてくれ」
「よかったです♪」
猫山さんは、いつもの笑顔を浮かべた。
「じゃあ、これからもよろしくお願いしますね。近藤先輩」
「おう。よろしくな」
こうして、何事もなく会話は終わった。
……と思ったのだが。
「ちなみに」
猫山さんが、ふと思い出したように付け加えた。
「仕事以外のことでも、頼っていいですか?」
「仕事以外?」
「はい。たとえば、先輩で遊ぶとか?」
「それは頼るって言わないだろ!」
「あははっ! 冗談ですって♪」
猫山さんは笑いながら、自分の持ち場へ戻っていった。
……やっぱり、そこは変わらないらしい。
***
その日の仕事も、無事に終わった。
着替えを済ませ、店を出る準備をしていると、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、猫山さんからメッセージが届いていた。
『先輩、今日はありがとうございました!』
お礼なら、さっき直接言われたばかりだ。
それでも、わざわざメッセージを送ってくるあたり、律儀なところもあるらしい。
俺は短く返信した。
『お疲れ。仕事にも慣れてきたし、これからも頑張れよ』
すぐに既読がつく。
『はい! 頑張ります!』
……珍しい。
今日は最後まで素直じゃないか。
そう思った直後、もう一通届いた。
『でも、先輩に教えてもらうことがなくなってきたら、ちょっとつまらないですね』
俺は画面を見つめた。
つまらない?
それは、どういう意味だ。
仕事を教わる機会が減るからか。
それとも、俺をからかう機会が減るからか。
……後者だろうな。
考えるまでもない。
俺はそう結論づけて、返信を打った。
『仕事は覚えても、からかうのはほどほどにしろよ』
数秒後。
『えー? 先輩が一人で寂しそうにしてるから、かまってあげてたんですよ♪』
「……こいつ」
思わず声が漏れた。
やっぱり、素直なのは一瞬だけだった。
俺はスマートフォンをポケットにしまい、帰り道を歩き出す。
猫山さんが仕事を覚えてくれたことは、本当に嬉しい。
これからは、俺がつきっきりで教える必要もなくなるだろう。
先輩としては、それでいい。
それでいいはずなのに。
これから、猫山さんが俺のところへ質問に来る回数は、きっと減っていく。
それは彼女が成長した証拠だ。
わかっている。
……わかっているのに、少しだけ物足りない。
「……まあ、何かあったら頼ってくれればいいか」
誰に聞かせるでもなく、俺はそうつぶやいた。
その直後、またスマートフォンが震えた。
『先輩、明日もよろしくお願いしますね! おやすみなさい♪』
……まったく。
明日も顔を合わせるというのに、わざわざメッセージまで送ってくるとは。
俺は小さく笑いながら、返信した。
『おう。おやすみ』
猫山さんは、もう新人ではなくなりつつある。
けれど、俺をからかう後輩であることは、どうやら変わりそうになかった。




