第5話 猫山さん今のは効きましたか?
「おはようございます、近藤先輩♪」
木曜日の朝。
店に着いて早々、俺は聞き慣れた声に出迎えられた。
振り向けば、そこには満面の笑みを浮かべた猫山真衣が立っていた。
「……おはよう」
「ん? どうしたんですか、先輩。なんだか元気がないですね?」
「別に、いつもどおりだよ」
「本当ですかぁ?」
猫山さんは俺の顔を覗き込むようにして、にやりと笑った。
「もしかして、昨日のことが忘れられないとか?」
「っ!?」
思わず肩が跳ねた。
「おまっ、誰にも言わないって約束しただろ!」
「えー? 私、誰かに言いましたっけ?」
「…………」
こいつ、絶対にわかっていて言っている。
昨日、書店で偶然出会ったことも。
俺が買った本のことも。
そして、あのメッセージのことも。
『いつか、わからせてくださいね♡』
……くそっ。
思い出すな、俺。
あれは絶対にからかわれているだけだ。深い意味なんてない。ないはずなのに、どうしてもあの文章が頭から離れない。
しかも、猫山さんは俺の反応を見て楽しんでいる。
もう、好き勝手にからかわれるのは御免だ。
今日こそは、先輩としての威厳を取り戻してやる。
「猫山さん……」
「はい?」
「あんまり先輩をからかうんじゃないぞ」
できるだけ落ち着いた声で、俺は言った。
猫山さんは一瞬きょとんとしたあと、ぱちぱちと瞬きをする。
「……はい?」
「仕事中はちゃんと先輩を敬うこと。わかったな?」
よし。
言えた。
ちゃんと先輩らしく注意できたぞ。
俺が内心で小さくガッツポーズをしていると、猫山さんはふっと笑った。
「はい! わかりました、先輩」
……あれ?
妙に素直だ。
「これからは、もっと先輩を立てますね?」
「お、おう。そうしてくれ」
「ふふっ。任せてください!」
その笑顔が、どうにも信用できない。
絶対に何か企んでいる。
俺の勘が、そう告げていた。
***
午前中の営業は、特に大きな問題もなく進んだ。
俺はいつもどおりホールを担当し、猫山さんも自分の持ち場で仕事をこなしている。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
猫山さんが、本当に俺をからかってこないのだ。
お客様にはいつもどおり丁寧に接客し、桜場さんとも楽しそうに話している。俺に対しても、仕事の確認や報告はきちんとしてくる。
それなのに、余計な一言がない。
……いや、朝から十分にからかわれた気もするが、いつもならその後も隙を見つけては何か言ってくるはずだ。
朝の注意が効いたのだろうか。
だとしたら、先輩としての威厳を少しは取り戻せたのかもしれない。
「……近藤先輩?」
「うわっ!」
背後から声をかけられ、俺は思わず飛び上がった。
「な、なんだよ!」
「いえ。さっきから私のことを見ているので、何か用かなと思いまして」
「み、見てない!」
「そうですか?」
猫山さんは首を傾げたあと、にっこりと笑った。
「私のこと、そんなに気になります?」
「仕事に集中しろ!」
「はーい♪」
……やっぱり、いつもの猫山さんだった。
俺はため息をつき、手元の伝票に目を落とす。
くそっ。
やっぱり、こいつには勝てる気がしない。
***
昼過ぎ。
少し客足が落ち着いた頃、店長から声をかけられた。
「近藤くん、ちょっといい?」
「はい、店長」
「倉庫の備品を確認しておいてくれる? 洗剤とペーパー類の在庫が少なくなってきたから、発注前に数を見てほしいんだ」
「わかりました」
「猫山さんにも手伝ってもらって。二人で確認したほうが早いだろう」
「……猫山さんとですか?」
しまった。
思わず聞き返してしまった。
店長は不思議そうに俺を見る。
「うん。何か問題でもある?」
「い、いえ! ありません!」
「そう? じゃあ、よろしくね」
店長はそれだけ言うと、事務所へ戻っていった。
俺は小さく息を吐く。
倉庫で二人きり。
いや、別におかしなことじゃない。
ただの在庫確認だ。
仕事なのだから、何も心配する必要はない。
……それに、今日は先輩としての威厳を取り戻すと決めたのだ。
猫山さんにからかわれたって、動じなければいい。
「先輩?」
「うおっ!」
またしても、背後から声がした。
振り向くと、猫山さんがメモ用紙とペンを持って立っていた。
「店長から聞きました。倉庫の在庫確認ですよね?」
「あ、ああ。そうだよ」
「じゃあ、行きましょうか」
猫山さんは楽しそうに笑い、先に歩き出す。
俺はその背中を追いながら、心の中で自分に言い聞かせた。
大丈夫。
今日は絶対に、こいつのペースには乗らない。
***
「先輩、これって何個ですか?」
倉庫に入ると、猫山さんが棚の上段を指さした。
「どれ?」
「この箱です。奥にあって、よく見えなくて」
猫山さんは背伸びをして手を伸ばしていたが、あと少しのところで届いていない。
「貸してみな。俺が取るよ」
「えっ、いいんですか?」
「当たり前だろ。無理して落としたら危ないからな」
俺は猫山さんの隣に立ち、棚の上に手を伸ばした。
箱を手前に引き寄せ、両手で抱えるようにして棚から下ろす。
「はい、これで――」
そのときだった。
俺の肘が、隣に置かれていた別の箱に当たった。
「あっ」
ぐらり、と箱が傾く。
棚の端に不安定な状態で置かれていたらしい。箱はそのまま、猫山さんのいる側へ滑り出した。
中身が飛び出すより早く、俺は反射的に猫山さんの肩を抱くようにして横へ引いた。
ガタンッ!
箱が棚から落ち、床にぶつかって大きな音を立てた。
「…………」
「…………」
数秒、沈黙が流れた。
俺の腕は猫山さんの肩に回ったまま。
猫山さんも、俺の制服の袖をぎゅっとつかんでいる。
……近い。
いや、近いなんてもんじゃない。
顔を少し動かせば、互いの表情がはっきりわかる距離だった。
「……ごめん、大丈夫?」
なんとか声を絞り出す。
「は、はい……」
猫山さんの返事は、いつもより少し小さかった。
俺は慌てて腕を離す。
「ご、ごめん! 危なかったから、とっさに引っ張っちゃって」
「い、いえ……助かりました」
猫山さんは胸元を押さえるようにして、一歩下がった。
その頬が、ほんのり赤くなっている。
……え?
今、赤くなった?
いや、倉庫は少し暑いし、たまたまだろう。
そうに決まっている。
俺が自分に言い聞かせていると、猫山さんは小さく咳払いをした。
「……先輩」
「ん?」
「急に触るなんて、セクハラですよ」
「えっ!? い、いや、危なかっただろ!」
「ふふっ。冗談です」
「お前なぁ……!」
「でも」
「でも?」
猫山さんは視線をそらし、手に持っていたメモ用紙の端を指でいじった。
「助けてくれたのは……ありがとうございます」
最後のほうは、ほとんど聞こえないくらいの声だった。
いつもの猫山さんなら、ここで絶対に何か言ってくる。
『先輩、私のこと好きなんですか?』とか。
『そんなにくっつきたかったんですか?』とか。
そうやって、俺をからかってくるはずなのに。
今日の猫山さんは、妙におとなしい。
それがなんだか、こっちまで落ち着かなくさせた。
「……おう。怪我がなくてよかったよ」
俺がそう返すと、猫山さんは小さく頷いた。
それから、床に散らばった箱の中身を一緒に片づけた。
***
その後は、何事もなかったかのように在庫確認を再開した。
猫山さんも普段どおりに仕事をしている。
ただ、さっきから妙に目が合わない。
こちらが話しかけると返事はしてくれるのだが、目が合うとすぐに視線をそらされてしまう。
……なんだ?
もしかして、本当に怒っているのだろうか。
いや、でも、謝ったし。
助けたことには感謝してくれたし。
俺は数をメモしながら、ちらりと猫山さんを見た。
すると、ちょうど猫山さんもこちらを見ていたらしい。
目が合った。
猫山さんは一瞬だけ固まり、すぐに顔を背けた。
「…………」
「…………」
今のは、見間違いじゃない。
絶対に動揺していた。
俺は思わず、口元が緩みそうになるのをこらえた。
……待て。
これはチャンスなのではないだろうか。
いつも俺ばかりからかわれている。
たまには、こっちから仕掛けてもいいはずだ。
俺はメモ用紙を棚に置き、猫山さんのほうを向いた。
「猫山さん」
「は、はいっ?」
返事が妙に裏返った。
よし。
ここで、先輩らしく堂々と言うんだ。
「さっきから大丈夫?」
「えっ……?」
「様子がおかしいよ?」
「い、いや、なんでもないですよ?」
「そっか」
俺は少しだけ笑ってみせた。
「でも、ちゃんと助けられてよかったよ。……大事な後輩だからな」
「…………っ」
猫山さんの目が、わずかに見開かれた。
そして。
頬が、さっきよりもはっきりと赤くなる。
「なっ……」
何か言いかけた猫山さんは、口を開いたまま固まった。
その反応を見た瞬間、俺の胸の奥で小さな勝利の鐘が鳴った。
やった。
今のは、効いた。
俺がそう確信した、その直後。
「……せ、先輩」
「ん?」
猫山さんは顔をそらしたまま、ぼそりと呟いた。
「……本当に、ありがとうございます」
声が、いつもと違う。
からかうような甘さも、余裕たっぷりの響きもない。
ただ、少しだけ困ったような声だった。
俺は思わず目を瞬かせた。
「……え?」
「な、なんでもありません!」
猫山さんは勢いよくメモ用紙を取り上げ、残りの在庫を確認し始めた。
「ほら、先輩! まだ数えるものがありますよ! 仕事してください、仕事!」
「お、おう……」
急にいつもの調子に戻った。
けれど、耳まで赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。
***
倉庫での作業を終え、俺たちは備品の数を店長に報告した。
その後も、猫山さんはいつもどおりに仕事をこなしていた。
俺をからかう余裕も、少しずつ戻ってきたらしい。
「先輩、さっきはありがとうございました」
「おう。もう大丈夫か?」
「はい。おかげさまで」
猫山さんはにっこりと笑った。
……いつもの笑顔だ。
俺は少しだけ残念に思いかけて、慌てて首を振った。
何を考えているんだ、俺は。
別に、猫山さんを動揺させたかったわけじゃない。
いや、少しはそうだったかもしれないけど。
「でも、先輩?」
「な、なんだよ」
猫山さんが、すっと顔を近づけてくる。
俺は反射的に身構えた。
「私、さっきのこと、ちゃんと覚えてますからね?」
「……さっきのこと?」
「先輩が、私のことを『大事な後輩』って言ってくれたことです」
「っ!?」
「ふふっ。あんなこと言われたら、ちょっと期待しちゃうじゃないですか」
……やっぱり、いつもの猫山さんだ。
俺は一気に顔が熱くなるのを感じた。
「そ、そこまで深い意味はない!」
「へえ? じゃあ、どういう意味ですか?」
「うっ……!」
「ふふっ。答えられないんですね、先輩♪」
「お前なぁ……!」
猫山さんは楽しそうに笑いながら、自分の持ち場へ戻っていった。
その背中を見送りながら、俺は深く息を吐いた。
結局、最後にはからかわれてしまった。
それでも。
今日の倉庫での一瞬を思い出すと、どうしても頬が緩んでしまう。
いつも余裕たっぷりの猫山さんが、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
あの顔を思い出すだけで、少しだけ気分がいい。
「……やり返すのも、悪くないなぁ」
小さく呟いた、そのとき。
ポケットのスマートフォンが震えた。
猫山さんからのメッセージだった。
『先輩、今日は助けてくれてありがとうございました!』
続けて、もう一通。
『……あと、ああいうことを急に言うのは禁止です!』
「…………」
思わず、画面を二度見した。
禁止ってなんだ。
禁止って。
俺は笑いをこらえながら、返信を打った。
『気をつけるよ』
送信して、スマートフォンをポケットにしまう。
すると、すぐにまた通知が鳴った。
『本当に反省してます?』
……していない。
正直、全然していない。
だって。
いつも俺をからかってばかりの猫山さんが、今日はほんの少しだけ、俺の言葉に動揺してくれたのだから。
もっとも、あいつのことだ。
明日になれば、今日のことまでネタにして俺をからかってくるかもしれない。
それでも――。
「……これからも、少しくらいは反撃してもいいだろう」
俺はスマートフォンをしまい、ひとり小さく笑った。
もちろん、その決意が明日も続く保証はない。
なにしろ相手は、あの猫山真衣なのだから。




