第4話 猫山さんそれは内緒にしてください
水曜日。
それは、俺たちが働くケ・トゥ・シーア・フェリーチェの定休日だ。
毎週水曜日は店が休みになるため、従業員も全員お休み。普段は仕事に追われている俺にとって、貴重な自由時間である。
そんな休日の過ごし方は、実に平凡だった。
昼過ぎに起きて、適当に飯を食べて、気が向いたら外へ出る。
そして今日は、面白そうな漫画を探すために本屋へやってきていた。
「うーん……これも新刊出てるのか」
漫画コーナーをうろうろしながら、棚に並ぶ本を眺める。
気になっていた作品の新刊を手に取り、裏表紙を確認する。ほかにも何か面白い作品がないかと探していると、ふと視界の端に別のコーナーが入った。
十八禁コーナー。
店の奥まった場所に、周囲から少し隔離されるように設けられている。
「…………」
足が止まった。
いや、別に。
別に、そういう本を買いに来たわけじゃない。
俺はただ、面白い漫画を探しに来ただけだ。
……ただ。
最近、あの生意気な後輩のせいで、妙に調子が狂っている。
猫山真衣。
あいつは、どうしてあんなにも人をからかうのが上手いのだろうか。
意味ありげな笑み。
耳元で囁く声。
そして、こっちの反応を見て楽しんでいるような、あの目。
思い出すだけで、頭が熱くなる。
「……くそっ」
俺は小さく呟いて、周囲を確認した。
幸い、近くに人はいない。
別に、成人向けの本を買うことくらい、恥ずかしいことじゃない。
そう、自分に言い聞かせながら、俺は棚へ目を向けた。
並んでいるのは、いろいろなジャンルの漫画本。
その中で、俺の目に留まったのは――。
「……わからせ系、か」
思わず声に出してしまい、慌てて口を閉じる。
なんというか、最近の俺には妙に刺さる言葉だった。
いつも好き放題にからかってくる、あの後輩。
もし、あいつに立場ってものをわからせるなら……。
「いやいやいや、何考えてんだ俺!」
頭を振って、余計な想像を追い払う。
これはただの漫画だ。
そう。漫画を読むのは、立派な趣味である。
俺は自分に言い訳をしながら、目当ての一冊を手に取った。
表紙を確認し、裏表紙を確認し、もう一度表紙を確認する。
……よし。
誰に見せるわけでもない。
俺は本を持ってレジへ向かい、できるだけ平静を装って会計を済ませた。
袋に入れてもらった本を受け取り、店を出る。
「……ふぅ」
ようやく一息つけた。
これで、今日の買い物は終わりだ。
あとは家に帰って、ゆっくり漫画を読むだけ。
そう思いながら歩き出した、そのときだった。
「――あれぇ?」
背後から、聞き覚えのある声がした。
嫌な予感がした。
振り返りたくない。
できれば、このまま聞こえなかったことにして立ち去りたい。
しかし、そんな俺の願いもむなしく。
「先輩?」
その声は、確実に俺を呼んでいた。
俺は恐る恐る振り返った。
そこにいたのは――。
「……猫山さん?」
私服姿の猫山真衣だった。
仕事中とは違う服装なのに、あの人を食ったような笑みだけはいつもどおりだ。
「わぁ、こんなところで会うなんて偶然ですねぇ〜」
「そ、そうだな……」
「先輩、なにしてたんですか?」
猫山さんの視線が、俺の手元に落ちる。
そこには、本屋のロゴが入った袋。
中身は見えないはずだ。
……大丈夫。
袋に入っているんだから、何を買ったかなんてわかるわけがない。
「いや、漫画本を読みたくてさ。本屋に来てたんだよ」
「ふーん」
猫山さんは、じぃっと俺の顔を見つめた。
「漫画本ねぇ〜」
「そ、そうだよ。普通の漫画」
「へぇ〜。普通の漫画、ですかぁ」
にこにこと満面の笑み。
彼女は、実に楽しそうにしている。
……なんだ?
何かがおかしい。
まさか、見られたのか?
いや、そんなはずはない。
十八禁コーナーは店の奥にあったし、レジに並んでいるときも周りを確認した。
誰にも見られていないはずだ。
大丈夫。大丈夫なはず!
「……先輩」
「な、なんだよ」
猫山さんが、すっと俺に近づいてきた。
そして、周囲を気にするように少しだけ顔を寄せると――。
「実は私、先輩がエッチな本を買うところ、見てたんですよねぇ〜」
「…………は?」
耳元で囁かれた言葉に、頭が真っ白になった。
……見てた?
何を?
いや、今なんて言った?
「な、ななな……!」
「ふふっ。あんなに真剣な顔で選んでるんですもん。声をかけようか迷っちゃいました」
「ま、待て! それは誤解だ!」
「何が誤解なんですかぁ?」
猫山さんは、わざとらしく首を傾げた。
「私、ちゃんと見てましたよ? 先輩が十八禁コーナーで本を選んで、そのままレジに持っていくところ」
「うっ……!」
逃げ道がない。
完全に見られている。
俺の顔から、さぁっと血の気が引いていくのがわかった。
よりによって、こいつに。
職場で毎日のように俺をからかってくる、あの猫山さんに。
こんなところを見られるなんて……!
「ねえ、先輩?」
「……はい」
「私って、口が結構軽いんですよねぇ」
「それだけは勘弁してください!」
俺は思わず頭を下げた。
休日に何を買おうが、俺の自由だ。
そんなことはわかっている。
わかっているが、職場の人間に知られるのは別問題だ。
しかも、猫山さんに知られたとなれば、これから何を言われるかわかったものじゃない。
「お願いします……どうか、内密にしてもらえないでしょうか……」
「うーん、どうしよっかなぁ」
猫山さんは、わざとらしく考えるふりをした。
その顔には、完全に面白がっていると書いてある。
くそっ。
また弱みを握られた。
「……じゃあ、ひとつお願いしてもいいですか?」
「な、なんだ?」
「先輩がどんな本を買ったのか、見せてもらえませんか?」
「…………え?」
俺は思わず袋を抱きしめた。
「そ、それは……」
「見せてくれたら、今日のことは全部忘れます!」
「本当か?」
「はい。私、約束は守るタイプなので」
にっこりと笑う猫山さん。
……信用できるか?
いや、できない。
この笑顔は、絶対に何か企んでいるときの笑顔だ。
だが、断ったら断ったで、職場で言いふらされるかもしれない。
そんなことになったら、明日からどんな顔をして働けばいいんだ。
……くそっ。見せるのも嫌だが、見せないのも怖い。
俺はしばらく袋を握りしめたまま、悩んだ。
そして――。
「……わかった。でも、絶対に誰にも言うなよ」
観念して、袋から本を取り出した。
「これでいいんだな?」
「はいっ!」
猫山さんは、嬉しそうに本を受け取った。
俺は顔を背け、できるだけ表紙を見ないようにする。
……なんで俺が、こんな思いをしなきゃならないんだ。
猫山さんは表紙を眺め、それから中身をぱらぱらと確認し始めた。
最初は、いつものように余裕たっぷりの笑みを浮かべていた。
ところが。
「…………」
ページをめくる手が、ぴたりと止まった。
猫山さんの頬が、じわじわと赤くなっていく。
さっきまで余裕たっぷりだった指先が、ページの上で止まった。
「……へぇ」
小さな声が漏れた。
「先輩って、こんなのが好きなんだぁ……」
「え? なんか言った?」
「な、なんでもないです!」
猫山さんは、ぱたん、と本を閉じた。
顔はまだ少し赤い。
「と、とにかく! これ、返しますね!」
「あ、ああ……」
本を受け取ると、俺はすぐに袋へ戻した。
猫山さんは一度咳払いをして、いつもの笑顔を取り戻す。
「約束どおり、今日のことは内緒にしておきますね」
「ほ、本当だな?」
「もちろんです。私、先輩との約束は大切にしますから」
そう言って、彼女はくすくすと笑った。
……絶対に、何か含みがある。
だが、ひとまず秘密は守られるらしい。
「じゃ、じゃあ俺はこれで……」
「はい。また明日、先輩♪」
猫山さんは、ひらひらと手を振った。
俺はそそくさとその場を離れ、帰路についた。
……疲れた。
せっかくの休日なのに、どうしてあいつと会うだけでこんなに疲れるんだ。
しかも、よりによって買った本まで見られるなんて。
「……もう、忘れよう」
俺は頭を抱えながら、家へと向かった。
その後、何事もなく帰宅した俺は、買ってきた本を机の上に置き、ベッドへ倒れ込んだ。
「……はぁぁぁ」
長いため息が出た。
今日は本当に、散々な一日だった。
明日、店で顔を合わせたら、いったいどんな顔をすればいいのだろう。
そんなことを考えていると、スマートフォンが震えた。
メッセージが一件。
画面を確認すると、送り主は――猫山真衣。
「……嫌な予感しかしない」
恐る恐る、メッセージを開く。
『今日は偶然会えて嬉しかったです♪』
……それだけなら、普通の挨拶だ。
問題は、その次の一文だった。
『いつか、わからせてくださいね♡』
「…………は?」
俺はスマートフォンを凝視した。
いつか、わからせてくださいね。
……どういう意味だ?
いや、意味はわかる。
わかるからこそ、困る。
あいつは、あの本の内容を見て、何を考えたんだ?
まさか!
「…………っ!」
俺はスマートフォンを伏せ、両手で顔を覆った。
頭の中に浮かぶのは、猫山さんの笑顔ばかり。
人をからかって楽しむ、あの生意気な笑み。
それなのに、時折見せる予想外の反応が、どうしようもなく気になってしまう。
「……くそっ。なんなんだよ、あいつ……」
胸の中で渦巻く、苛立ちとも期待ともつかない複雑な感情。
俺はそれを振り払うために、今日買ったエロ本を手に持つ。
……明日こそは、絶対にあいつに振り回されない。
そう、固く決意して。
――その決意が、翌日にはあっさり崩れることになるとも知らずに。




