第3話 それは反則ですよ猫山さん
昼下がり。
今日の店は、驚くほど暇だった。
ランチタイムのピークはとっくに過ぎ、客席にはまばらに客がいるだけ。ホールの仕事も一段落し、俺は手持ち無沙汰になっていた。
「……今日は暇だなぁ」
思わず口にすると、近くでグラスを補充していた桜場さんが笑った。
「そういう日もあるよ。忙しすぎるよりはいいでしょ?」
「まあ、それはそうですけど」
俺は壁の時計に目をやった。
秒針が、やけにゆっくり進んでいる。
……暇すぎる。
何かやることはないかと店内を見回していると、桜場さんと猫山さんの会話が耳に入ってきた。
「そういえば猫山さんって、休みの日は何してるの?」
「そうですね……軽く運動したり、ストレッチしたりしてます。たまにジョギングもしますよ」
「えー、偉い! 私なんて休みの日は家でゴロゴロしてるだけだよ」
「そんなことないですよ。桜場さんだって、十分スタイルいいじゃないですか」
「ふふっ、ありがとう。でも、猫山さんもスタイルいいよね。普段から気をつけてるの?」
「はい。やっぱり、体型は維持したいので。食事にも気をつけてますし、運動もなるべく続けるようにしてます」
俺の手が、伝票の束の上で止まった。
体型。
その言葉に反応した自分をごまかすように、伝票の端を揃える。
……猫山さんは、確かにスタイルがいい。
いや、思い出すな。
俺は慌てて頭を振った。
今は仕事中だ。余計なことを考えるな。
「やっぱり、ウエストとかも気にしてるの?」
桜場さんが何気なく尋ねる。
「もちろんです。せっかくなら、きれいなラインを保ちたいですから」
ウエスト。
俺は反射的に顔を上げかけ、慌てて視線を伝票へ戻した。
聞くつもりはなかった。
ただ、声が聞こえてきただけだ。
そう自分に言い聞かせながら、伝票を整理する手つきだけが妙に丁寧になっていく。
「近藤くん?」
「っ、はい!」
肩が跳ね、手元の伝票がばさりと崩れた。
振り向くと、桜場さんがニヤニヤしながらこちらを見ている。
「さっきから、こっちの話が気になるみたいだけど?」
「べ、別に気にしてませんよ!」
声が一段高くなった。
「へえ〜? まだ何も言ってないのに?」
「そ、それは……」
言葉が詰まり、俺は崩れた伝票を拾うふりをして顔を伏せた。
桜場さんは楽しそうに笑い、猫山さんへ視線を向ける。
「ねえ、猫山さん。近藤くん、なんだか様子がおかしくない?」
「そうですね。さっきから、ずいぶん熱心に聞いていたみたいですし」
「聞いてないって!」
勢いよく顔を上げた瞬間、二人と目が合った。
……しまった。
否定するには、反応が早すぎた。
猫山さんが、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
その口元には、見慣れた笑みが浮かんでいた。
ああ、これはまずい。
嫌な予感しかしない。
彼女は俺のすぐそばまで来ると、周りには聞こえないように声を落とした。
「……私たちの話を聞いて、何いやらしい想像してるんですか、先輩?」
「なっ……! してない!」
思わず身を引いたせいで、背中がカウンターに当たった。
「本当ですか?」
猫山さんは小首を傾げる。
近い。
目を合わせれば、彼女の笑った目がすぐそこにある。
かといって視線をそらせば、今度は余計なところを見てしまいそうになる。
……どうしろっていうんだ。
「私、体型を維持するために頑張ってるんですよ。特にウエストは、けっこう自信があるんです」
「そ、そうか……」
返事が喉に引っかかり、声がかすれた。
「……触ってみます?」
「そういうことを、簡単に言うな!」
思わず声が大きくなった。
店内に響いた自分の声に、俺は慌てて口を閉じる。
猫山さんは口元を押さえ、肩を小さく震わせていた。
「ふふっ。先輩って、本当にわかりやすいですね」
「お前なぁ……!」
「はいはい。お仕事の邪魔をしてすみません」
そう言いながらも、猫山さんはまったく悪びれていない。
彼女はくるりと背を向け、補充途中だったグラスへ手を伸ばした。
そして、俺にだけ聞こえる声で、ぽつりと呟いた。
「……先輩の意気地なし」
「――っ!」
息が止まった。
反論しようとして口を開いたのに、声が出てこない。
猫山さんは、そんな俺を見て満足そうに笑った。
それから何事もなかったかのように、グラスを棚へ並べていく。
……絶対に、わざとだ。
わかっている。
わかっているのに、言い返す言葉が見つからない。
「……馬鹿にしやがって」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
俺は伝票を置き直し、猫山さんから逃げるようにその場を離れた。
「近藤くん? どこ行くの?」
「ちょっと、トイレです!」
返事が裏返った。
振り返る余裕もなく、俺は足早にホールを抜ける。
顔が熱い。
耳の奥では、さっきの声がいつまでも消えなかった。
――触ってみます?
――先輩の意気地なし。
「……くそっ」
俺は逃げるようにトイレへと向かった。




