第2話 猫山さんは俺にだけ容赦がない
翌朝。
俺はいつもより少し早く店に到着した。
理由は単純だ。
昨日のことを、少しでも早く忘れたかったからである。
「……はぁ」
制服に着替えながら、俺は深いため息をついた。
昨日、新人の猫山さんの着替えを見てしまった。
しかも、あろうことか。
『ご馳走様です!』
などと、人生でもトップクラスに意味不明な発言をしてしまったのだ。
思い出すだけで頭を抱えたくなる。
「……なんであんなこと言ったんだ、俺」
後悔と、ほんの少しの喜びが交差する。
いや、喜ぶな。反省しろ。
しかも、彼女とは連絡先まで交換してしまった。
あの状況で交換したという事実が、なんとも気まずい。
「……よし」
俺は頬を軽く叩いた。
過ぎたことは仕方ない。
今日からは、ちゃんと先輩として振る舞おう。
昨日のことは、ちゃんと謝った……はずだ。
いや、待て。
そもそも、俺はちゃんと謝ったのだろうか。
あのときは連絡先を交換することになって、それどころじゃなかった気がする。
「…………」
考えるのはやめよう。
仕事だ、仕事。
うちの店では、持ち場がきっちり決まっている。
キッチンを担当するのは佐々木さんと大久保さん。
ホールを担当するのは俺と桜場さん、そして今日も猫山さんだ。
料理を作る人間と、お客様に接する人間。それぞれが自分の仕事をきちんとこなすことで、店は回っている。
俺もホール担当として、先輩らしく振る舞わなければならない。
……まあ、普通に接すればいいだけだ。
そう自分に言い聞かせ、俺はホールへ向かった。
***
「おはようございます!」
店の入口から、明るい声が響いた。
猫山さんだ。
「おはよう、猫山さん」
「おはようございます、近藤さん!」
彼女は昨日と変わらない笑顔で、ぺこりと頭を下げた。
……あれ?
普通だ。
ものすごく普通だ。
昨日のことなんて、まるでなかったかのような態度である。
いや、もちろん、普通に接してくれるならありがたい。
俺だって、いつまでも引きずるつもりはない。
ただ、こうも何事もなかったようにされると、逆にこちらが気まずい。
「えっと……昨日は、その……」
「はい?」
「いや、なんでもないです、はい」
「そうですか?」
猫山さんは不思議そうに首を傾げた。
……本当に気にしていないのだろうか。
いやいや、そんなはずはない。
あのときのことを思い出せ。
きっと、俺が何か言うのを待っているんだ。
そうに違いない。
「近藤さん?」
「はいっ!」
「……声、大きいですよ?」
「す、すみません!」
いかん。
完全に調子が狂っている。
そんな俺をよそに、猫山さんは更衣室へ向かった。
しばらくして制服姿でホールに戻ってくると、今度は桜場さんに挨拶をしていた。
「おはようございます、桜場さん!」
「おはよう、猫山さん。今日もよろしくね」
「はい! よろしくお願いします!」
「困ったことがあったら、遠慮なく聞いてね」
「ありがとうございます!」
うん。
やっぱり普通だ。
礼儀正しくて、明るくて、仕事にも真面目。
昨日のことは、もう水に流してくれたのかもしれない。
……そう思っていた。
少なくとも、俺と二人きりになるまでは。
***
「じゃあ、近藤。今日は猫山さんにホールの仕事を教えてやってくれ」
店長に頼まれ、俺は猫山さんと客席へ向かった。
「それじゃあ、昨日の続きから始めようか」
「はい! よろしくお願いします!」
まずは、ホールの基本的な仕事の確認だ。
「お客様をご案内したら、人数を確認して席まで案内する。注文は基本的にタブレットだけど、操作がわからないお客様もいるから、そのときは説明してあげて」
「はい」
「料理ができたら、伝票とテーブル番号を確認して運ぶ。料理名も間違えないようにな」
「わかりました」
「あと、熱い料理を運ぶときは、やけどや料理をこぼさないように注意すること」
「それくらい、さすがにわかりますよ」
「……おい。先輩の説明を最後まで聞こうな?」
「あっ、すみません。つい」
猫山さんは口元を押さえた。
反省しているように見える。
……いや、目が笑っている。
「まあいい。じゃあ、実際にやってみよう。俺がお客様役をやるから」
「わかりました」
俺は客席の椅子に座った。
「すみませーん」
「いらっしゃいませ! ご用件をお伺いします!」
「えっと、ハンバーグ定食をお願いします」
「かしこまりました。ハンバーグ定食を一つですね」
「うん、お願いします」
「ご注文を繰り返します。ハンバーグ定食を一つ。以上でよろしいでしょうか?」
「はい」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ!」
完璧だった。
声の大きさも、言葉遣いも、動きも問題ない。
「……すごいな」
「ありがとうございます」
「本当に、初日からここまでできる人はなかなかいないぞ」
「そうなんですか?」
「ああ。俺なんて、最初は注文を聞くだけで緊張してたからな」
「へえ」
猫山さんは、なぜか意味ありげに俺を見た。
「近藤さんにも、そんな時代があったんですね」
「そりゃあるだろ!」
「今も緊張しているように見えますけど」
「……仕事には緊張感が必要なんだよ」
「昨日のことにも?」
「なんでそこにつなげるんだよ!」
思わず声が大きくなった。
猫山さんは、ぱちぱちと瞬きをした。
「……昨日のこと?」
「…………」
しまった。
自分から墓穴を掘った。
「い、いや、なんでもない!」
「ふふっ。近藤さんって、わかりやすいですね」
「誰のせいだと思ってるんだ……」
「さあ?」
彼女は涼しい顔で首を傾げた。
くっ……。
言い返せない。
俺が勝手に気まずくなっているだけなのだから。
「まあ、とにかく。接客は合格だな」
「ありがとうございます、近藤先輩」
先輩。
……いい響きだ。
できれば、もう少し尊敬のこもった声で呼んでほしいものだが。
こうして、基本的な仕事の確認は無事に終わった。
***
午前十時を過ぎると、店内に少しずつお客様が増えてきた。
ランチのピークにはまだ早いが、開店直後の静けさはもうない。
「近藤くん、二番テーブルにお水お願い」
桜場さんに頼まれ、俺は水の入ったグラスをトレーに載せた。
「了解です!」
「猫山さんは、三番テーブルの片付けをお願いできる?」
「はい、わかりました!」
猫山さんは明るく返事をして、手際よく食器をまとめ始めた。
仕事も早い。
しかも、わからないことがあれば、ちゃんと確認している。
新人としては申し分ない。
……俺に対する態度を除けば。
いや、別に悪口を言われているわけではない。
ただ、俺と二人きりになると、妙に遠慮がなくなるのだ。
たとえば、さっきもそうだった。
「近藤さん、これってどこに置けばいいですか?」
「それは、こっちの棚だな」
「ありがとうございます」
猫山さんは食器を棚に戻した。
そして、俺がその場を離れようとしたところで。
「……あれ? こっちじゃありませんでしたっけ?」
「ん?」
振り返ると、彼女は別の棚を指さしていた。
「いや、それは取り皿の場所だぞ」
「そうでしたっけ?」
「そうだよ。さっき説明しただろ」
「なるほど。じゃあ、今の説明で覚えました」
「最初から覚えてくれ!」
「はい。先輩が忘れないように、私が覚えておきますね」
「立場が逆だろ!」
猫山さんは、くすくすと笑った。
……この子、絶対にわざとやってるだろ。
周囲に人がいるときは、ちゃんとした後輩の顔をしている。
「近藤先輩、ありがとうございます! 助かりました!」
なんて、笑顔で言ってくる。
なのに、二人きりになるとこれだ。
まったく、油断も隙もない。
***
午前十一時。
いよいよ、ランチタイムが始まった。
店内は次第に賑わい、注文が立て続けに入る。
「近藤くん、四番テーブルに料理お願い!」
「はい!」
「桜場さん、六番のお客様、お会計お願いできますか?」
「はーい!」
「猫山さん、五番にサラダをお願い!」
「かしこまりました!」
キッチンでは佐々木さんと大久保さんが料理を作り、俺たちホールの三人が料理の提供や接客、片付けを担当する。
それぞれが自分の役割をこなすことで、忙しい時間帯も店を回していく。
猫山さんも、教えたことをしっかり実践していた。
料理を運ぶときにはテーブル番号を確認し、お客様には笑顔で対応する。
さっきまで俺をからかっていたのが嘘みたいだ。
……いや、あれは俺の気のせいだったのか?
「近藤くん、七番テーブルの料理、上がったよ!」
厨房から大久保さんの声が飛んできた。
「了解です!」
俺は伝票を確認し、厨房の受け渡し口まで料理を取りに向かった。
料理を受け取り、七番テーブルへ向かう。
「お待たせしました。こちら、ミートソースパスタです」
無事に料理を提供し、ホールへ戻る。
その途中、猫山さんが片付けを終えたテーブルを拭いているのが見えた。
手際がいい。
周りをよく見て、次に必要な仕事を自分で探している。
……本当に優秀だな。
俺が三年かけて覚えたことを、この子はどれくらいの速さで身につけてしまうのだろう。
そんなことを考えていた、そのとき。
「近藤さん!」
「ん?」
猫山さんが、少し離れた場所から声をかけてきた。
「すみません! ちょっとお願いしてもいいですか?」
「ああ、いいぞ!」
俺は彼女のもとへ向かった。
「どうした?」
「このお皿なんですけど、どこに戻せばいいんでしたっけ?」
猫山さんが指さしたのは、片付け途中のテーブルに残っていた取り皿だった。
……あれ?
これ、さっき教えた場所じゃなかったか?
「猫山さん。さっき説明したよね?」
「……そうでしたっけ?」
彼女はきょとんとした顔をした。
いや、絶対に覚えている。
だって、さっきも同じ食器を片付けていたじゃないか。
「いや、ここに――」
「あっ、思い出しました」
「だろ?」
「近藤さんが説明してくれた場所ですね」
「そうそう。だから――」
「でも、もう一度教えてほしくて」
「…………は?」
思わず、間の抜けた声が出た。
「だって、先輩ですから。後輩に何度聞かれても、ちゃんと教えてくれますよね?」
「いや、仕事を覚えるためなら何度でも教えるけどさ……」
「じゃあ、お願いします」
「……今の、聞く必要あった?」
「ありました!」
「即答かよ!」
猫山さんは、とうとう声を出して笑った。
くそっ。
この子、仕事を覚えるためじゃなく、俺をからかうために聞いている。
間違いない。
「わかったよ。ここ。種類ごとに分けて戻すんだ」
「はい。ありがとうございます、近藤先輩」
「次は一人でできるな?」
「もちろんです」
「本当だろうな?」
「……たぶん」
「たぶん!?」
「冗談です。ちゃんと覚えました」
猫山さんは満足そうに笑った。
俺はため息をつきながら、片付けの続きを手伝った。
……まったく。
仕事ができるくせに、どうして俺にだけこんなことをするんだ。
***
ランチタイムが落ち着いたのは、午後二時を過ぎた頃だった。
「ふぅ……」
俺はホールの隅で、ようやく一息ついた。
疲れた。
とにかく疲れた。
忙しかったのもあるが、それ以上に。
「……あいつ、絶対に俺で遊んでるだろ」
そう。
猫山真衣である。
仕事はできる。
礼儀もある。
他の人には、感じのいい新人として振る舞っている。
なのに、俺にだけ妙に生意気なのだ。
しかも、俺が強く言い返せないことを、完全に理解しているように見える。
……いや、実際に理解しているのだろう。
昨日、俺が自分から弱みをさらけ出したようなものだからな。
「近藤くん、お疲れさま」
桜場さんが、片付けたトレーを持ってやってきた。
「お疲れさまです。いやあ、今日は忙しかったですね」
「そうね。でも、猫山さん、すごく仕事が早いね」
「ですよね。教えたことをすぐ覚えますし」
「近藤くんが教えるのが上手なんじゃない?」
「いやいや、そんなことないですよ」
俺は照れくさくなって頭をかいた。
すると、桜場さんが少し笑った。
「でも、猫山さんと話しているとき、近藤くんってちょっと慌ててるよね」
「えっ?」
「気のせいかな?」
「き、気のせいですよ!」
「ふふっ。そういうことにしておくね」
桜場さんはそれ以上追及せず、仕事に戻っていった。
……危ない。
まさか、周りにも気づかれ始めているのか?
いや、別に俺にはやましいことはない。
ないったら、ない。
「近藤さん?」
「うおっ!?」
突然、すぐ近くから声がした。
振り返ると、猫山さんが立っていた。
「な、なんだよ!」
「そんなに驚かなくても」
「急に声をかけられたら驚くだろ!」
「ふふっ。お疲れみたいですね」
「誰のせいだと思ってるんだ……」
「私ですか?」
「……自覚があるなら、少しは反省してくれ」
俺はようやく言い返した。
猫山さんは一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに目を細めた。
「そうですね。おふざけは程々にします」
「本当か?」
「はい」
「……信用していいんだな?」
「もちろんです」
猫山さんはにっこりと笑った。
……なんだろう。
笑顔なのに、まったく安心できない。
「それで、何か用か?」
「店長から、休憩に入る前に近藤さんに確認しておくように言われたことがあって」
「確認?」
「はい。午後の仕事についてです」
「ああ、なるほど」
俺は気持ちを切り替え、仕事の説明を始めた。
「午後はランチの片付けが中心になる。あとは、必要に応じて食器の補充やテーブルの整理だな。わからないことがあったら、桜場さんにも聞いてくれ」
「わかりました」
「俺もホールにいるから、遠慮なく――」
「近藤さんに聞いてもいいんですよね?」
「もちろん」
「何度でも?」
「……仕事のことならな」
「ふふっ。わかりました」
猫山さんは丁寧に頭を下げた。
そして、俺が安心した、その直後。
「ところで、近藤さん」
「ん?」
「昨日のこと、まだ気にしてます?」
「――っ!」
俺は危うく持っていた布巾を落としかけた。
「な、なんのことだよ!」
「え? 何のことって……」
猫山さんはわざとらしく首を傾げる。
「私の連絡先、交換したじゃないですか」
「そ、それは……」
「不思議じゃなかったですか?」
「……まあ、なんで連絡先を交換したがったのかな、とは思ったけど」
俺が正直に答えると、猫山さんは少しだけ考えるような顔をした。
「知りたいですか?」
「そりゃ、気になるだろ」
「うーん。どうしてでしょうね?」
「おい!」
「冗談です」
彼女はくすっと笑った。
「乙女の柔肌を見ちゃったんですから。いつでも近藤先輩を脅せるように、連絡先を知っておかないと……ね?」
「脅すためにって……」
俺は思わず唾を飲み込んだ。
「でも、別に先輩のことは嫌いじゃないですよ?」
「……え、そうなの?」
「だから、ちゃんと連絡するので、返事はしっかりしてくださいね!」
「……俺に、何を連絡するんだ?」
「それは、これからのお楽しみです」
猫山さんは、いたずらっぽく笑った。
「それでは、近藤先輩。午後もよろしくお願いします!」
そう言って、彼女はホールへ戻っていった。
残された俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……本当に何考えてるのかわからねぇ」
ただ、一つだけわかったことがある。
猫山さんは、俺をからかうのをやめるつもりがないらしい。
……まあ、仕事は真面目にやってくれるし、別に困ることばかりでもない。
そう思いかけて、俺は首を振った。
いやいや。
このままじゃ、先輩としての威厳がなくなる。
明日こそは、堂々と接してやる。
猫山さんに振り回されないように。
「……よし」
俺は小さく頷いた。
***
その日の仕事を終え、帰り道でスマホを取り出すと、猫山さんからメッセージが届いていた。
『今日はお疲れ様でした!』
……おお。
ちゃんとしたメッセージだ。
俺は少し安心して、返信を打とうとした。
しかし、続けてもう一件、通知が届いた。
『明日もよろしくお願いしますね、先輩♪』
……まあ、これは普通だ。
そう思った直後、さらにもう一件。
『明日はもっと可愛がってあげますね!』
「…………」
俺はスマホを見つめた。
年下の子に弄ばれて、なんとも言えない感情が湧いてくる。
「……絶対に負けないからな」
誰もいない帰り道で、俺は小さくつぶやいた。
明日こそは、先輩としての威厳を取り戻してみせる。
――もちろん、その決意がいつまで続くかは、また別の話である。




