第1話 有望な新人猫山さん
四月。
春とはいえ、朝の空気にはまだ少し冷たさが残っていた。
俺――近藤雄太、二十一歳。
この小さなファミリーレストラン、Che tu sia felice.(ケ・トゥ・シーア・フェリーチェ)で働き始めて、三年目になる。
厨房ではキッチン担当の佐々木さんと大久保さんが仕込みをし、ホールは桜場さんと俺で対応している。
そんな俺の日常に、その日、一人の新人が加わった。
「近藤、今日から新人が来るからな」
開店前の厨房で、店長であり、俺の叔父でもある白波さんが言った。
「新人?」
「ああ。正社員で入ってくる。十八歳だ」
「十八歳……」
「お前も三年前は十八歳だっただろ」
「それもそうですね。あっという間に三年目ですよ」
「その調子で頑張ってくれよ」
「任せてください! 元気が取り柄ですから!」
「はいはい」
適当に流された。
***
新人が来る時間が近づき、俺は今している仕事を止めて、時計を見た。
午前八時半。
そろそろ来る頃か。
そのときだった。
「おはようございます!」
店の入口から、よく通る声が響いた。
「来たか」
店長が厨房から出ていく。
俺も少し遅れてホールへ向かった。
そこにいたのは、一人の女の子だった。
さらさらと艶のある髪、黒髪ボブで猫のヘアピン、小柄で可愛らしい見た目。
「本日からお世話になります。猫山真衣です!」
彼女はきちんと頭を下げた。
まだ十八歳ということもあって、どこか初々しい。
それでも、挨拶はしっかりしている。
「よろしくお願いします」
「うん。今日からよろしくな」
店長が笑顔で応じる。
「まずは着替えてきてもらおうか。更衣室は奥な」
「はい」
「近藤、案内してやってくれ」
「俺ですか?」
「今日からお前も先輩だぞ?」
「わかりました」
俺は猫山さんに向き直った。
「こっちに来て」
「ありがとうございます、近藤さん」
「制服はもう渡されてる?」
「はい」
猫山さんは手に持ったバッグを軽く持ち上げた。
「じゃあ、着替えたらみんなに挨拶しよう」
「わかりました」
そう言って、猫山さんは更衣室へ向かった。
俺は厨房に戻った。
――ここまでは、普通だった。
問題が起きたのは、その数分後だ。
「近藤!」
「はい?」
佐々木さんに呼ばれた。
「冷蔵庫の在庫、確認しといてくれ」
「わかりました」
俺は厨房の奥へ向かい、在庫の確認を済ませた。
そこで、ふと思い出す。
……猫山さん、まだ戻ってきてないな。
店長に任された以上、ちゃんと面倒を見ないとな。
そう思い、更衣室の前まで向かった。
「猫山さん?」
返事がない。
もう着替え終わっているのだろうか。
俺は軽く扉をノックした。
「猫山さん、いる?」
やはり、反応がない。
不思議に思い、俺は扉を少しだけ開けた。
「猫山さん、入る――」
そこで、言葉が止まった。
目に入ったのは、上着が頭に引っかかり、身動きが取れなくなっている猫山さんの姿だった。
しかも、下は下着姿。
「えっ……」
「わっ! ちょ、近藤さん!?」
猫山さんがこちらに気づいた。
「す、すみません!」
俺は慌てて顔をそらした。
「ちょっと待ってください! 服が引っかかって……!」
どうやら、着替えようとしたところで、服がうまく脱げなくなってしまったらしい。
「だ、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないです……!」
「わ、わかった! 助けるから!」
俺は猫山さんに確認しながら、引っかかった服を外すのを手伝った。
どうにか服が脱げたところで、俺はすぐに距離を取る。
「ご、ごめん! じゃあ、俺は外で待ってるから!」
「……ありがとうございます」
「いえいえ! 困ったときはお互い様だから!」
そう言って、俺は更衣室を出ようとした。
「……ちょっと待ってください」
「はい?」
猫山さんに呼び止められた。
「すぐ着替えるので、待っていてください」
「わかった」
俺は扉の外で待つことにした。
それから一分もしないうちに。
「……着替え終わりました」
「お、おう」
俺が更衣室に入ると、制服姿の猫山さんが立っていた。
そして。
「……見ましたよね」
彼女が静かに言った。
「へ?」
「だから、見ましたよね?」
「え、いや、あれは……」
俺は一瞬で状況を理解した。
事故とはいえ、彼女の下着姿を見てしまった。
ここで言い訳を重ねるのは、火に油を注ぐようなもの。
ならば、いっそ開き直ろう!
そして、俺は。
「ご馳走様です!」
……大変素晴らしい光景を見せていただいたことへの、感謝の気持ちを述べた。
――なぜ俺は、そんなことを言ってしまったのか。
口にした瞬間、激しく後悔した。
「…………」
恐る恐る顔を上げる。
猫山さんの顔は真っ赤だった。
もちろん、照れているから……ではない。
明らかに、ご立腹だった。
やってしまった。
完全に発言を間違えた。
「近藤さん……」
「はい!」
「……あれは、私の落ち度なので責めはしません」
「そ、そうですよね!」
「ただ、先ほどの発言はセクハラですね。通報します」
猫山さんはスマホを取り出した。
「ちょ、ちょっと待ってください! それだけは、それだけは勘弁してください!」
俺は慌てて頭を下げた。
「なんでもしますから!」
「……ほう。なんでも?」
「へ?」
猫山さんは、にやりと笑った。
「じゃあ、連絡先を教えてください」
「そ、そんなのでいいのか?」
「ええ」
「ほ、本当に?」
「……ほかに何を想像したんですか?」
「い、いえ! なんでもありません!」
終わったと思ったが、なんとか首の皮一枚つながった気分だ。
俺は慌ててスマホを取り出し、彼女と連絡先を交換した。
……しかし、なぜ彼女は俺の連絡先を知りたがったんだろうか。
まあ、助かったのだから良しとしよう!
「では、近藤さん」
「……はい」
「準備もできましたし、そろそろ仕事を教えてください」
「そうですね……」
俺は気まずさを抱えたまま、彼女とともに更衣室を後にした。
――このときの俺は、まだ知らなかった。
この日を境に。
俺が猫山真衣に、どうしても強く出られなくなることを。
***
「お待たせしました」
猫山さんとともにホール裏へ向かう。
そこには、店長、桜場さん、大久保さん、佐々木さんが集まっていた。
「改めて、自己紹介してもらおうか」
白波さんに促され、猫山さんが一歩前へ出る。
「今日から正社員として働かせていただきます、猫山真衣です」
ぺこり、と頭を下げた。
「わからないことも多いと思いますが、一生懸命頑張ります。よろしくお願いします!」
「よろしくねー!」
真っ先に声を上げたのは、大久保さんだった。
「私は大久保朱莉。キッチン担当ね。わからないことがあったら何でも聞いて!」
「はい! よろしくお願いします!」
次に、桜場さんが口を開いた。
「桜場薫です。同じホール担当だよ。よろしくね。最初は覚えることが多くて大変だと思うけど、焦らなくて大丈夫だから」
「ありがとうございます」
「厨房は大久保さんと佐々木さんの二人だよ」
俺が紹介すると、佐々木さんも軽く会釈した。
「佐々木龍之介です。よろしく」
「よろしくお願いします!」
「そして、俺が店長の白波大輔。困ったことがあったら、いつでも相談してくれ」
「はい!」
「ちなみに、今すでに困ってることとかない?」
「……はい!」
一瞬、猫山さんは返事をするまでに間を置いた。
そして、ちらりと俺の方を見た。
……まさか。
ここで「セクハラを受けました」なんて報告されるんじゃないだろうな?
俺は内心、冷や汗をかいていた。
「……いえ、今のところは大丈夫です!」
「そうか。何かあったら遠慮なく言ってくれよ」
「はい!」
どうやら、今のところは見逃してもらえたらしい。
全員への挨拶が終わる。
その場の空気は、かなり良かった。
大久保さんと桜場さんは、さっそく猫山さんに話しかけている。
どうやら、仲良くやれていそうだ。
俺はほっと胸をなで下ろした。
「じゃあ、今日は簡単なところから始めよう」
「はい!」
俺は猫山さんを連れて厨房へ向かった。
「ここが食器置き場。こっちが調味料。冷蔵庫は――」
「はい」
猫山さんは真剣に話を聞いていた。
説明を終えたところで、俺は皿を手に取った。
「じゃあ、この皿をあっちに運んでみて」
「わかりました」
猫山さんは迷うことなく動き、指定した場所に皿を置いた。
「……早いな」
「そうですか?」
「普通、もうちょっと迷うぞ」
「近藤さんの説明がわかりやすいので」
「そういうことを言ってくれると教えやすいな」
「ありがとうございます」
そのときは、素直に感心していた。
仕事を覚えるのも早い。
挨拶もしっかりできる。
礼儀もある。
かなり優秀な新人だ。
――ただし。
「近藤さん」
「ん?」
「これ、次はどうするんですか?」
「それは――」
俺が説明する。
猫山さんは頷いた。
「なるほど」
「わかった?」
「はい」
「じゃあ、やってみて」
「わかりました」
数分後。
「できました」
「……早っ」
「合ってますか?」
「ああ、合ってるよ」
「では、次をお願いします」
「はいはい」
俺が次の仕事を教える。
猫山さんは、それも難なくこなした。
「……」
「どうしました?」
「いや……」
俺は苦笑した。
「思ったより優秀だなって」
「ありがとうございます」
「そのうち、俺より仕事ができるようになるんじゃない?」
「それは困りますね」
「なんで?」
「近藤さんの存在価値がなくなるので」
「…………」
「はい?」
猫山さんが、にこりと笑った。
「冗談です」
……今のは、本当に冗談だったのだろうか。
このとき俺は、ようやく気づき始めていた。
さっきまでの猫山さんとは、何かが違う。
ほかの人には礼儀正しく、真面目。
なのに、俺にだけは。
「近藤さん、これお願いします」
「はい」
「先輩なんですから」
「……はい」
「ちゃんとしてくださいよね?」
「……はい、申し訳ありません」
「ふふっ」
――生意気だった。
しかも、妙に楽しそうだ。
どうやら彼女は、俺に対してだけ遠慮するつもりがないらしい。
そして俺は、確信し始めていた。
今日からしばらく、猫山さんには頭が上がらない。
……いや、もしかすると。
これから先も、ずっとそうなのかもしれない。




