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境界線の向こう側へ

 スクーターをその場に乗り捨て、ハルは錆びついた重い鉄のハッチを、全身の体重をかけて押し開けた。隙間から滑り込むようにして、外の世界へと這い出る。


「あ……っ……」


 ハルの口から、かすれた吐息が漏れた。

 そこは、彼女が生まれてから16年間、ただの一度も目にしたことのない、本物の「外の世界」だった。


 見上げれば、エデンの完璧に固定された偽物の青空ホログラムはどこにもない。そこにあるのは、どこまでも重々しく、目まぐるしく渦巻く、厚い雨雲に覆われた灰色の大空。

 頬を強くぶち抜いたのは、AIによって常に22度に保たれた快適な空気ではなかった。生々しい大地の匂いを含んだ、凍えるように冷たく、湿った野生の暴風だ。


 目の前には、圧倒的な質量を持って鬱蒼と生い茂る、底の知れない深い山々が果てしなく広がっていた。


 ハルは、父の遺した座標だけを頼りに、一歩を踏み出した。

 地面はコンクリートではなく、容赦なく足元をすくい取る深い泥だ。エデンでろくに運動などしたことのないハルの華奢な身体は、最初の数歩で早くも悲鳴を上げた。

 容赦なく叩きつける雨が視界を奪い、何度も足が滑って斜面に這いつくばる。むき出しの切り株に強か打ちつけた膝からは、鮮烈な赤い血がにじみ、泥と混ざり合って流れた。


 痛い。苦しい。寒さで歯の根が合わない。

 麻痺していた五感が、この過酷な自然の暴力によって、凄まじい勢いで目覚めていく。


 息を切らし、泥を這うようにして山を登ること、どれほどの時間が経っただろうか。

 突如、目の前の空間が、まるで蜃気楼のようにジジジ……と細かく歪んだ。


 見上げるほど巨大な、空間の歪み。それこそが、二つの世界を冷酷に分かつ、超高電圧の『電磁隔壁』だった。その半透明の壁は、激しい雨を弾きながら、目に見えない檻としてそこに君臨していた。


 ハルはその場に立ち尽くし、壁の向こう側を凝視した。


 激しい雨が木々を揺らす、森の斜面。

 その隔壁のわずか数メートル向こう側に――「彼女」は立っていた。


 粗末な、泥まみれの麻の服。雨に打たれながら、こちらをじっと見つめている。


 ハルは、息をすることさえ忘れて立ち尽くした。


 夢の中で何度も見た、あの野生的な、鋭い瞳。

 本一冊与えられず、文字の読み書きも教わらず、ただこの『箱庭実験』の被験体として、今日を生きるためだけに過酷な労働を強いられてきた、血の繋がった妹。

 洗面台の水鏡の向こう側だったはずの、自分の、もう一人の半身。


「……みお


 ハルの震える声は、激しい雨音にかき消された。

 澪はただ、自分とまったく同じ顔をした、けれど見たこともないほど綺麗な衣服(ハルが着替えた綿の服ですら、澪にとっては驚くほど洗練されて見えた)をまとった少女を、信じられないものを見るような目で見つめている。


 バチバチバチッ、と二人の間で電磁隔壁が激しく火花を散らす。

 その残酷な境界線を挟んで、天国と地獄に引き裂かれた双子は、生まれて初めて「現実」として、互いの姿をその瞳に焼き付け合うのだった。

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