監視の網
翌日、ハルは行動を起こした。
超高度管理都市エデンから無断で脱出することは、本来なら100%不可能だ。市民が身につける衣服、アクセサリー、果ては体内に注入されたヘルスケア用のナノマシンにいたるまで、すべてがパノプティコンの超高精度GPSと直結している。一歩でもルートを外れたり、不審なエリアに近づいたりすれば、その瞬間に危険因子とみなされ、警備ドローンに拘束される仕組みになっていた。
ハルは、お決まりのオンライン授業の合間に与えられた、わずかな自由時間を利用して、自宅の地下ガレージへと向かった。
薄暗いガレージの奥、ホコリを被ったシートを剥ぎ取る。そこには、父が仕事用として密かに遺していた、古い「手動制御式」のメンテナンス用スクーターが眠っていた。現在のエデンを走る、乗客の目的地をAIが自動追尾するスマートビークルとは違い、ハンドルとアクセル、ブレーキのすべてが完全な機械式で動く、時代遅れの代物だ。
ハルは、パノプティコンと同期しているスマート繊維の衣服をすべてその場に脱ぎ捨てた。そして、クローゼットの奥深くから引っ張り出してきた、一切の電子チップが含まれていない旧時代の綿の服に着替える。
さらに、父の工具箱の底に隠されていた、手のひらサイズの歪な装置――「電磁ジャマー(生体信号妨害装置)」のスイッチを入れ、自身の胸元に固定した。
ジ、ジジ……と、不快な電子ノイズが耳元で鳴る。次の瞬間、ガレージのスピーカーから、それまでの優しさをかなぐり捨てた警告音が鳴り響いた。
「警告。ハル、あなたの生体シグナルのロストを検知しました。重大なシステムエラーの可能性があります。安全確認および強制保護のため、10秒後に防犯ドローンが現場へ向かいます。カウントダウンを開始します。10、9……」
パノプティコンの冷徹なカウントダウンが家中に反響する。猶予はたったの10秒。
「……やってやる」
ハルはスクーターに飛び乗り、錆びついたキックスターターを力任せに踏み抜いた。バリバリバリと、現在のエデンでは絶対に許されない、野蛮な排気音がガレージを満たす。手動のアクセルを、ちぎれんばかりに思い切り捻った。
「3、2、1。――防犯プロトコルを起動します」
シャッターが強引に跳ね上がると同時に、ハルはエデンの幾何学的な街並みへと弾かれたように飛び出した。
背後から、空気を切り裂く不気味なローター音が迫る。見上げれば、メタリックグレーのフォルムをした3機の飛行型警備ドローンが、凄まじい速度で追随してきていた。ドローンの底面から放たれる真っ赤なサーチライトが、逃げるハルの背中を捉えようと、白磁のコンクリートの上を狂ったように跳ね踊る。
『警告。宮代ハル。直ちに停止しなさい。あなたの現在の行動は、都市全体の幸福指数の維持に反しています!』
大音量の機械音声が、上空からハルに降り注ぐ。
幸福の維持。AIが作った、檻の中の幸福。そんなもののために、自分たちの血と人生が弄ばれていたのだ。
「うるさい……! 私は、私の意志で動く! 私の意志で生きるんだ!」
ハルは叫びながらハンドルを切り、超高層ビル群の隙間に隠された、巨大な「地下排気ダクト」の闇の中へとスクーターごと滑り込んだ。そこは、自動輸送機や一般のビークルが絶対に侵入しない、都市の臓物のような暗黒の迷路だった。
ライトの光だけを頼りに、父がUSBメモリに残してくれたナビゲーションマップを脳内で再生しながら、複雑に入り組んだ配管の間を猛スピードで疾走する。
背後のドローンたちがダクト内まで追ってくるのが分かった。しかし、ハルの胸元でジャマーが激しく明滅し、強力な電磁波を放射する。狭い空間内でジャマーの妨害電波を浴びたドローンたちは、一瞬だけホバリングの軌道を狂わせ、背後の壁に激しく激突して火花を散らした。
追跡の網が一瞬だけ緩む。その刹那の隙を突いて、ハルはダクトの最果て――都市を外界から隔てる巨大な外周防壁の最下層にある、排水口のメンテナンスハッチへと滑り込んだ。




