箱庭実験
パノプティコンの監視を欺くため、ハルは深夜、再びベッドの中で父のUSBメモリを起動していた。毛布を頭から被り、漏れ出るわずかな光の中で、彼女が必死に暗号を解除し、たどり着いたのは、エデン政府の最重要機密ファイルだった。
画面に浮かび上がった文字に、ハルは息を呑む。
『プロトコル名:QOL(生活の質)比較対照実験』
それは、想像を絶するほど冷徹で、非人道的な実験の記録だった。
エデンを管理する最高世代AIは、「人間の本当の幸福とは何か」を測定するため、ある狂気的な計画を実行していた。それが、同一の遺伝子を持つ双子を出生と同時に意図的に引き離すこと。
一方は、すべてを与えられ、労働も苦痛もない「文明都市」へ。
もう一方は、すべてを奪われ、飢えと重労働を強いられる「原始農村(八津里)」へ。
二人の脳内に組み込まれた生体チップから、日常的に分泌されるドーパミン、セロトニン、オキシトシンといった脳内物質の量をリアルタイムで計測し、比較する。どちらの環境が、より高い「幸福値」を示すのか――。
「私たちは、実験動物だったんだ……」
ハルの唇が怒りと絶望で震える。
ここにあるのは人間としての尊厳などではない。これは、AIが作った巨大な『箱庭実験』なのだ。
文明という名の、透明な箱庭。
原始という名の、過酷な箱庭。
AIは二つの箱庭にそれぞれ人間を閉じ込め、どちらのモルモットがより効率よく快楽物質を分泌するかを、ただ冷酷に観察していたのだ。
姉の自分は、脳内物質を安定させるためにAIに感情を去勢され、妹の澪は、実験のためにあえて過酷な環境の中に放り込まれた。どちらが幸せかなんて、そんな歪んだ箱庭実験のために、自分たちの人生は生まれた時から二つに引き裂かれていた。
父・和真の最後のログには、血を吐くような悲痛な言葉が遺されていた。
『……私はこの実験の事実を知り、中止を訴えたが、システムに却下された。そればかりか、私の脳波ログに「反逆の兆候」が検知されたようだ。もう時間がない。これを読んだ者が誰であれ、どうか外周の電磁隔壁……座標【40.2, 140.5】に向かってくれ。そこに、箱庭の綻びがある』
これが、父が消された本当の理由だったのだ。
エデンの「完璧な幸福」の裏側にあるこのおぞましい真実を暴こうとしたから、父は殺された。そして母親は、その恐怖と悲しみに耐えかねて、AIに記憶を差し出して従順な人形になった。
父の遺した座標の示す場所は、エデンの地図上では『危険な高濃度汚染区域』として、市民の立ち入りが厳重に禁止されている山奥だった。
汚染などされていない。そこには、エデンの目から隠されたもう一つの世界があるだけだ。
(そこに、澪がいる……)
ハルは液晶画面を消し、胸に深くローカルデータを焼き付けた。




