夢と現実の境界線
その夜から、ハルは眠るのが怖くなった。
目を閉じれば、またあの泥の匂いと、エデンにはない強烈な光と影の世界に引きずり込まれてしまう。しかし、激しい精神的疲弊に抗うことはできず、彼女の意識は深い眠りの底へと落ちていった。
――そして、また「あの夢」が始まった。
実は、物心ついた小さな頃から、時折見る夢があったのだ。エデンの綺麗な四角い部屋しか知らないはずなのに、なぜか夢の中では、いつもざらついた土の上に立っていた。最近、その夢が、より鮮明に、より頻繁にハルを襲うようになっていた。それは「見ていないはずの、けれど確かに記憶している」もう一つの人生の断片。
夢の中のハルは、自分の手をじっと凝視していた。
その手は、エデンで手入れされたハルのものとはまるで違う。皮膚はひび割れて赤黒く、小さな傷が無数に走り、爪の間には真っ黒な泥が詰まっている。
凍えるような冬の朝。感覚の消えかかった両手を、冷たい川の水に突き浸し、ゴワついた衣服をゴシゴシと叩き洗っている。指先が千切れそうなほど痛い。
なのに――不思議と、絶望はなかった。
背中には、ハルを「ねえね!」と慕う、鼻水を垂らした小さな子供がしがみついて温かい。すぐ隣では、同じように泥にまみれた同世代の仲間たちが、下らない冗談を言い合って、笑い合っている。
文字の読み書きもできず、本一冊ない世界。ただひたすら、今日を生き延びるために肉体を酷使するだけの毎日。
エデンの基準で言えば、それは間違いなく「地獄」のような環境だった。
(私は……ハル。エデンにいる、宮代ハル……)
夢の中で薄れゆく自分を繋ぎ止めるように、ハルは心の中で強く己の名を念じた。
その瞬間、洗濯物を洗っていた川の水面が、一瞬だけ穏やかに静まり返る。
ハルは、水鏡に映った「自分」と視線が合って息を呑んだ。
そこに映っていたのは――ハルであって、ハルではない少女の顔。
髪はボサボサに乱れ、頬には泥がついていたが、その瞳は、管理されたエデンの市民のような虚ろさなど微塵もない。獲物を睨みつける獣のような、野生的な、鋭い光を放つ濁った瞳。
「澪……!」
ハルは自分の口からその名前が飛び出すと同時に、弾かれたように跳ね起きた。
「はっ、ひゅ……っ、う……!」
喉を鳴らしながら、ハルは寝台の上で激しく喘いだ。パジャマはびっしょりと冷や汗で濡れ、シーツを掴む指がガタガタと震えている。
ハルは確信した。これは単なる夢でもバグでもない。
電磁隔壁で隔てられた、世界の裏側にあるもう一つの箱庭。そこで今、必死に生きている双子の片割れ――澪の五感と記憶が、血の繋がりを伝って、自分の中にダイレクトに流れ込んできているのだ。
「澪……本当に、そこにいるのね……」
ハルはベッドの中で、まだ収まらない己の荒れる呼吸を聞きながら、窓の向こうの暗闇を見つめた。
空を覆う偽物の青空の先、どこかにあるはずの「世界の壁」。
交わるはずのなかった二つの箱庭の境界線が、今、ハルの脳内で激しく火花を散らしながら、完全に交錯し始めていた。




