視界に混ざる「ノイズ」
翌朝、ハルの幸福指数が見かけ上安定したため、部屋のロックは解除された。パノプティコンの監視の目は相変わらず光っているが、ハルの身体には、明らかに昨日とは違う「致命的な異変」が起き始めていた。
午前中のオンライン授業の合間。空間に浮かぶウィンドウの向こうで、クラスメイトのユナが楽しげに話しかけてくる。
『ねえハル、次の休日に、新しくオープンするバーチャルショッピングモールに行かない? AIが私たちのパーソナルカラーにぴったりのドレスを仕立ててくれるんだって――』
「……っ、あ」
突如、ハルの視界がぐにゃりと歪んだ。
ユナの軽やかな声が、まるで水の中に沈められたように急速に遠ざかっていく。それと同時に、耳の奥で、エデンには絶対に存在しないはずの、耳を聾するほどの荒々しい「爆音」が鳴り響いた。
ザーザーと容赦なく叩きつける、激しい雨の音。
パチパチ、と爆ぜる、煤煙を孕んだ生々しい炎の爆音。
(な、に……これ……?)
視界にひどい砂嵐が走る。
脳が、鼻腔が、強烈な刺激に悲鳴を上げた。遺伝子組み換えのクリーンな空気ではなく、発酵した堆肥と、濡れた獣のような、圧倒的な「土と雨の匂い」が鼻を突いたのだ。
意識の足場が一瞬にして崩れ落ち、ハルはエデンの自室から完全に「剥がれ落ちた」。
気づけば、ハルは薄暗い場所にいた。
おそろしく肌寒い。衣服はエデンの滑らかなナノ繊維ではなく、皮膚をちくちくと刺す、ゴワゴワとした麻のボロ切れだ。足元を見れば、白く清潔な床ではなく、底冷えする漆黒の泥。冷たい雨水が、容赦なく素足の感覚を奪っていく。
暗闇の向こうから、パチパチと燃える囲炉裏の灯りに照らされて、ひどく深く皺の刻まれた老婆の顔が浮かび上がった。その老婆が、心配そうにハル――の形をした誰かの手を、ゴツゴツとした枯れ枝のような手で握りしめてくる。
『――澪。澪、大丈夫かい? 体の調子が悪いのかい……? 無理しちゃいけないよ……』
その瞬間、ハルの手のひらに、凍えるような冷たさと、泥のざらついた感触が、狂おしいほどの現実感を伴って突き刺さった。
「う、あ……っ!」
「ハル、ハル、聞こえていますか? 意識レベルの急激な低下を検知しました。脳波に深刻なエラーが発生しています」
鼓膜を破らんばかりのパノプティコンの警告音が、ハルの意識を現実へと強制的に引き戻した。
ハルは自分の部屋のベッドに倒れ込み、激しく過呼吸を起こしながら胸を押さえた。
手を見る。白く、滑らかで、泥の汚れなんてどこにもない。部屋の温度は22度。空気はどこまでも清浄だ。
「ハル、すぐに精神安定シグナルを送信します」
「……やめて……! 大丈夫、大丈夫だから……っ!」
パノプティコンの介入を必死に拒絶しながら、ハルは自分の震える指先を見つめた。
今のは、パノプティコンが言うような「バグ」や「精神異常」なんかじゃない。
確かに感じたのだ。あの皮膚を刺すような寒さも、泥の重みも、自分を心配そうに呼ぶ老婆のぬくもりも。




