父の形見
その日の午後、ハルは自室のデスクで、亡き父・和真の数少ない形見を眺めていた。
エデンでは、すべての物品がデータ化され、物理的な「所有」は推奨されていない。それどころか、人間が亡くなると、その人物の個人データや生活ログはシステムから一瞬で完全に消去される。まるで、最初からこの世界に存在しなかったかのように。
だからこそ、ハルが手元に隠し持っているこの「実物」は、命がけの密輸品のようなものだった。
3年前、父は亡くなった。
病気も事故もAIによって未然に防がれるはずのこの街で、父の死因は「原因不明の心不全」と処理された。システムはそれ以上の追及を許さなかった。
そして父が亡くなった直後、母親はすぐにAIの指示に従った。
『伴侶の喪失による精神的損失を補填するため、現在のあなたに最適なパートナーをマッチングしました』
AIのその提案を、母親は涙一つ流さずに受け入れた。
今も、階下のリビングからは楽しげな笑い声が聞こえてくる。母親と、新しくやってきた「父親」の男。AIに選ばれたその男は、絵に描いたように穏やかで、システムにどこまでも従順だった。
「お母さんにとって、お父さんは何だったの……?」
その答えを知る者はいない。今の家の中に、実の父親の居場所は、ハルの記憶の中にしか残っていなかった。
ハルは、手の中にある父の唯一の形見に視線を落とした。
それは、今の時代には誰も使っていない、金属製の古い「腕時計」だった。
スマートデバイスのように画面があるわけではない。ガラスの向こうで、物理的な針がチクタクと健気に時を刻むだけの、旧時代の遺物。
だが、その針はいつの間にか止まってしまっていた。
(お父さん、動かなくなっちゃったよ……)
寂しさが押し寄せ、ハルは引き出しから柔らかいクロス(布)を取り出した。せめてピカピカにしておこうと、時計のケースについた薄い埃や汚れを、丁寧に、優しく磨き始める。
その時だった。
裏蓋の隙間にこびりついた汚れを落とそうと、少し強めに指先で擦った瞬間。
――カチ、と、軽い金属音が響いた。
「え……?」
磨いていた拍子に、裏蓋の一部がスライドするようにカチリと開いたのだ。
壊してしまったのかと一瞬焦ったハルだが、そうではないことに気づく。それは、あらかじめ意図的に作られた「隠しギミック」のようだった。
外れた蓋の奥、時計の精巧な歯車たちの隙間に、明らかに時計の部品ではない、異質なものが埋め込まれていた。
「これ……何……?」
それは、奇妙な長方形の物体だった。
現在のエデンで使われている、脳波に直接リンクする半透明の極小チップとは明らかに違う。鈍い銀色に光る、金属とプラスチックの無骨な塊。
学校の歴史のデータスケープで見たことがある。旧時代の記録メディア――『メモリ』と呼ばれるものだ。
ハルは息を呑み、それをそっと指先でつまみ出した。
父が、自分にも、エデンの目にも触れないよう、静かに時計の奥底に隠し通していた秘密の塊。
「どうして、こんなものが……」
これを開けたら、もう元の「安全な日常」には戻れないかもしれない。そんな予感が胸をよぎる。しかし、それ以上に、亡き父の本当の姿に触れられるかもしれないという強烈な好奇心が、ハルの小さな背中を突き動かしていた。




