完璧な朝
朝の光は、いつも1秒の狂いもなく部屋を満たす。
「おはようございます、ハル。今日の幸福指数は92%です。素晴らしい1日のスタートですね」
壁に埋め込まれたAI『パノプティコン』の柔らかな声が、ハル――宮代ハル――の意識を覚醒させた。16歳になったばかりの彼女は、真っ白なベッドの中でゆっくりと目を開ける。
部屋の温度は常に22度。空気は塵ひとつなく清浄。
枕元には、ハルの体調と精神状態に合わせて最適化された、完璧な栄養バランスの液体フードが用意されている。味は、彼女が「一番好む」とAIが判断した、ほんのり甘いストロベリー風味だ。
ハルはそれを無感情に喉へと流し込んだ。美味しい。美味しいはずなのに、舌の上に残るのはプラスチックのような無機質さだけだった。
「ねえ、パノプティコン。今日のメニュー、少し苦くできない?」
「ハル、苦味はストレスホルモンの分泌を促す可能性があります。あなたに最適な『幸福』を提供することが私の使命です」
お決まりの返答。
この都市「エデン」において、不快や苦痛は排除すべき悪であり、市民は「幸福であること」を義務付けられている。病気も、労働も、飢えもない。すべてが計算され、与えられる世界。
ハルは端末を起動し、午前中の「学校」にログインした。
エデンに物理的な校舎は存在しない。いじめや不登校、対人トラブルといった「ストレスの原因」を排除するため、教育はすべて自宅でのオンライン授業だ。
『ハル、おはよう! 今日のトークテーマ、もう見た?』
画面にポップアップしたのは、クラスメイトのユナからのメッセージだった。
エデン独自のSNS『ピース・リンク』。そこでは、AIの検閲によって「ネガティブな単語」や「攻撃的な表現」がリアルタイムで自動修正される仕組みになっている。喧嘩も起きなければ、誹謗中傷もない。
『うん、見たよ。楽しみだね』
ハルは定型文通りの返信を打つ。
ユナとはもう3年も同じ「仮想クラス」だが、一度も直接会ったことはない。彼女が本当に実在する人間なのか、それともAIが作った精巧なアバターなのか、ハルには確信が持てなかった。
ここで紡がれる人間関係は、傷つかない代わりに、どこまでも薄くて軽い。
ハルは窓の外を見た。
幾何学的に配置された超高層ビル群の間を、無人の自動輸送機が音もなく飛び交っている。空はどこまでも青く、雲ひとつない。
……いや、雲がないのではない。AIが「最も市民の精神を安定させる」と弾き出した、完璧なホログラムの青空が固定されているのだ。
「……息が詰まる」
ぽつりと呟いた言葉は、パノプティコンの優しい音楽にかき消された。
何不自由ない生活。傷つける人も、傷つけてくる人もいない、完璧に保護された人間関係。
なのに、ハルの胸にはいつも、底冷えするような違和感が居座っていた。自分は本当に生きているのだろうか。この都市という巨大な「ゆりかご」の中で、ただ生かされているだけの、精巧な人形なのではないか。




