『福を食らう牙』
その男、佐伯は、都内の安アパートで「招き猫」に囲まれて暮らしていた。
玄関、窓際、枕元、そしてトイレの蓋の上にまで、陶器製、プラスチック製、木彫り……あらゆる種類の、右手を挙げた猫たちが並んでいる。
それは一種の「呪」だった。
佐伯は信じていた。猫がいつか、自分に「本物の幸運」を招き寄せてくれることを。
だが、招き猫というモノは、福を呼ぶと同時に、持ち主の「執着」という名の毒を吸い込んで肥大していく魔物でもあるのだ。
ある日、佐伯は一匹の黒柴犬を拾った。
雨の夜、ゴミ捨て場の隅で、濡れた炭のような色をして震えていた。
佐伯は動物など好きではなかったが、その黒柴の右前脚が、まるで招き猫のように不自然に曲がっているのを見て、反射的に連れ帰ってしまった。
「お前も、福を呼ぶのか?」
佐伯は、黒柴に『フク』という名をつけた。それがこの犬にかけた最初の「呪」だ。
アパートに連れ帰った瞬間、異変は起きた。
部屋中の招き猫たちが、一斉にカタカタと震えたのだ。
フクは唸り声を上げた。その牙は白く、剥き出しになった歯茎からは野性の、そして獣特有の生臭い匂いが漂う。
その夜から、佐伯の生活は一変した。
フクは、棚に並んだ招き猫を、一匹ずつ、丁寧に噛み砕いていった。
バキリ、という硬質な音が真夜中の静寂を裂く。陶器の破片が散らばり、佐伯が何年もかけて集めた「福の予感」が、ただの瓦礫へと変わっていく。
「やめろ、やめてくれ!」
佐伯は叫び、フクを蹴り上げようとした。
だが、その瞬間。
フクの瞳が、黄金色に輝いた。
それは招き猫のガラス玉の瞳ではない。深山の闇を凝縮したような、恐ろしくも神々しい、本物の獣の光。
佐伯は、動けなくなった。
格闘家がリング上で、圧倒的な死の予感に打たれて硬直するように。
フクは、最後の一匹――佐伯が最も大切にしていた、江戸時代の骨董品の招き猫を口に咥えた。
そして、ゆっくりと咀嚼した。
ゴリ、ゴリ、という音が佐伯の脳髄に直接響く。
次の日の朝。
部屋からすべての招き猫が消えていた。あるのは無数の破片と、満腹そうに眠る黒柴犬だけだ。
佐伯は絶望した。
おれの幸運が、おれの執着が、すべてこいつに食い尽くされた。
しかし、その時、電話が鳴った。
何年も前に絶縁した父からの遺産相続の知らせだった。さらに、宝くじの当選、音信不通だった恋人からの謝罪……。
雪崩のように、幸運が押し寄せてきた。
招き猫を壊されるたびに、佐伯の運気は爆発的に上昇していったのだ。
マジか?
マジか!
佐伯は狂喜した。
やはりこの犬は『フク』だった。
モノへの執着を破壊することで、真の福を招き寄せる「生きた呪」だったのだ。
佐伯はフクを溺愛した。
最高級の肉を与え、絹のクッションに寝かせた。
だが、フクは次第に痩せ細っていった。
部屋に壊すべき招き猫がなくなったからだ。
フクは、悲しげな声で鳴き、佐伯の右手をじっと見つめるようになった。
佐伯は理解した。
この犬は、食い続けなければ死ぬ。
そして、この犬が死ねば、今の幸運もすべて消え失せるだろう。
佐伯は、自分の「執着」の正体を知った。
彼は金が欲しかったのではない。愛が欲しかったのでもない。
「福を招いている自分」という状態に、狂おしいほど執着していたのだ。
一週間後。
佐伯の部屋には、穏やかな幸福が満ちていた。
佐伯は満足げに笑い、左手だけでフクの頭を撫でている。
フクは、その足元で、何やら赤い肉のようなものを幸せそうに噛み砕いていた。
それは、佐伯が自ら差し出した、「招く」ためにしか使わないはずの、右の手、、、首、、、。
どうだい。
「幸運」という名の毒に当てられた男が、最後には自分の一部を供物にして、その幸福を維持しようとする。
これこそが人の「業」だ。
招き猫という無機質なモノへの執着が、黒柴犬という生身の獣を介して、血肉を伴う本物の「呪」へと完成したわけだ。
君の右手は、今、無事かな。
フフフフ
この刺が、君の心に深く刺さったまま抜けないことを願っているよ。




