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『業火の星、沈黙の牙』

 その男、クズハは、銀河の果てを漂う極楽船「胡蝶丸」の主だった。

 彼の仕事は、たった一つ。聖者、賢者、清廉潔白な英雄――そんな連中を、言葉と薬と「美しき絶望」という名の蜜で、泥沼の底に引きずり下ろすことだ。


 クズハにとって、人間の心などというものは、ほんの少し指先で弾けばひび割れる安物のガラス細工に過ぎない。

 彼は「執着」という名の糸を操る、宇宙一の蜘蛛であった。


「さあ、見せてくれ。君の喉元に隠した、どす黒い『激怒』を」


 クズハは、船の展望室で、一人の男と対峙していた。

 男の名は、無名むみょう。かつて、滅びゆく惑星から十億の民を救い出した、生ける伝説たる救世主だ。無名は、クズハに拉致され、三日三晩、最も卑劣な「誘惑」に晒されていた。


 クズハは、無名が救ったはずの民が、今や強欲に染まり、互いに殺し合っている映像を見せつけた。

 無名の妻であった女が、別の男の腕で悦びに浸るホログラムを踊らせた。

 宇宙の静寂の中に、クズハの冷ややかな声が、一種の『しゅ』となって響く。


「無名、君が守った世界に価値などない。君が捧げた自己犠牲は、単なるマスターベーションだ。怒れ。自分を裏切った世界を、、呪って、焼き尽くしてしまえ」


 窓の外には、巨大な赤色巨星が、断末魔のような光を放っていた。

 船内には、オゾンの匂いと、微かな酒の香りが漂っている。クズハの指先は、格闘家の拳のように硬く、無名の顎を強引に持ち上げた。


 無名は、黙っていた。

 その瞳は、宇宙の虚無よりもなお深い静寂を湛えている。


 クズハは苛立った。

 誘惑に屈せず、絶望もせず、怒りもしない。そんな人間がいていいはずがない。

 彼は「紛れの手」として、最後の禁じ手を打った。

 無名の故郷を滅ぼしたのは、他ならぬ、無名自身の「救済計画」の計算ミスだったという偽の証拠を突きつけたのだ。


「お前が殺したんだよ。十億の民を、お前の無能が殺したんだ!」


 その瞬間、船が揺れた。

 いや、揺れたのは船ではない。宇宙そのものだ。


 無名の喉の奥から、地鳴りのような音が漏れた。

 それは、怒号ですらなかった。

 ただの、熱い、吐息。


「……おおおおおっ」


 クズハは、歓喜に震えた。

 ついに、聖者の仮面が剥がれる。

 無名の瞳に、紅蓮の炎が宿る。

 

 激怒。

 

 それは、宇宙を焼き尽くすほどの、純粋で絶対的な暴力としての怒りだ。

 無名が立ち上がった。その体から放たれる熱圧で、展望室の強化ガラスが白く濁り始める。


「そうだ! それだ! その怒りで、俺を殺してみろ! 俺を殺せば、お前もまた、ただの殺人鬼へと堕ちるのだ!」


 クズハは、最高の絶頂の中にいた。

 悪人が、聖人を、自らと同じ地獄へと引きずり下ろす瞬間。

 これこそが、彼にとっての「王道」であり、人生という名の物語のハッピーエンドなのだ。


 だが。


 無名の拳は、クズハの顔面を捉えなかった。

 無名は、その凄まじい激怒のまま、自分の胸元――「心臓」を貫かんばかりに、自らの掌を叩きつけた。


「ぐ、う、おおおおおおおお!」


 無名が叫ぶ。

 その怒りは、他者へ向けられたものではなかった。

 自分の無力へ。自分の傲慢へ。そして、目の前の悪人すら救い得ない「自分という存在」への、凄まじい烈火のごとき自責の怒りだった。


 無名の体から、黄金の光が溢れ出した。

 激怒というエネルギーが、臨界点を超え、一種の「核融合」を引き起こしたのだ。

 仏教で言うところの、阿修羅の如き怒りが、そのまま慈悲の光へと反転していく。


「馬鹿な……」


 クズハは、目を見開いた。

 誘惑は、失敗したのか。

 いや、成功したのだ。

 彼は無名を、宇宙で最も激しく、最も熱く、燃え盛る「怒りの太陽」へと変えてしまったのだ。


 次の瞬間、胡蝶丸は無名の放つ「激怒の光」に呑み込まれた。

 

 光の中で、クズハは見た。

 

 自分がこれまで誘惑し、堕落させてきた無数の人々の魂が、その温かな怒りの炎で、一つ一つ浄化され、洗われていくのを。

 

 クズハ自身の「ごう」もまた、容赦なく焼き尽くされていく。

 それは、恐ろしいほどの痛みであり、同時に、鼻から脳が垂れるほどの甘美な救済でもあった。


 宇宙の果て。

 暗黒の空間に、突如として新しい星が誕生した。

 それは、一人の悪人が誘惑し、一人の聖人が「自らに激怒」したことで生まれた、慈悲の星であった。

 

 クズハは、その星の中心で、意識を失いながら笑った。

 

 最後の一行を、宇宙という原稿用紙に刻み込みながら。

 

 ──結局、おれが一番、誘惑に弱かったというわけか。

どうだい。

「人を怒らせる」という誘惑が、巡り巡って、自分自身の魂を浄化する「呪」に変わる。

聖人の怒りは、他者を殺すためではなく、自らを焼き、光を放つためのものだった。


悪人が、自分自身の罠に完璧にハマり、救われてしまう。

これこそが、人間の「業」の面白さ、美しさだとぼくは思うんだ。


君の脳に、この「激怒の光」が届いたかな。

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