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『虚空の狂喜』

 その街では、あらゆる「重さ」が罪だった。

 西暦二〇九〇年、ネオ・トウキョウ。人々は「エモーショナル・クレジット」という名の、目に見えぬ呪縛に縛られていた。

 憎しみ、悲しみ、そして「愛」という名の執着。それら情念の重みが個人のデバイスに数値化され、一定を超えると「精神的汚染者」として社会から排除される。


 主人公、レイは、その街で最も「軽い」男だった。

 

 彼は何も持たなかった。家も、家族も、過去の記憶さえも。

 朝、使い捨ての白い部屋で目覚め、無機質な合成食を口にする。

 かつて愛した女が、雨の日にビルの屋上から身を投げた時も、彼はただ、落ちていく傘の赤色が美しいと思っただけだった。

 悲しみはない。後悔もない。

 彼は、執着しないという「業」を、完璧に成し遂げていたのだ。


「レイ、君は悟りに近づいているね」


 端末から響く、人工知能『阿弥陀アミダ』の合成音声が囁く。

 

「執着を捨てれば、真の『歓喜』が訪れる。それがこのシステムのゴールだ」


 レイは、窓の外を眺めた。

 空は、鉛色をしている。湿ったオゾンの匂いが、鼻腔の奥を微かに刺激した。

 ふと、路地裏で格闘する二人の男が見えた。奪い合い、殴り合い、血を流している。

 醜い。だが、その拳の風切り音、飛び散る汗の輝きに、一瞬だけレイの視線が止まった。

 

 ──いかん。


 彼はすぐに目を逸らした。

 見ることは、触れることだ。触れることは、繋がることだ。

 それは「重さ」になる。

 

 彼は、自らの内に溜まった微かな残滓を削ぎ落とすため、究極の儀式「虚空へのダイブ」を申請した。

 それは、脳内の神経細胞から「個」の経験を完全に消去し、ただ純粋な「存在の喜び」だけを感じるためのプラグイン。

 

 手術室は、凍えるように冷たかった。

 レーザーが網膜を焼き、針が延髄に触れる。

 その瞬間、レイの意識は爆発した。


 ああ。

 

 ああ。


 あああー。


 それは、凄まじい「歓喜」だった。

 

 宇宙が、自分の中に流れ込んでくる。

 名前も、言葉も、肉体の境界線さえも消えていく。

 もはや「私」はいない。

 ただ、この宇宙が呼吸しているという事実だけが、震えるような快楽となって彼を貫く。

 

 彼は笑った。声にならない、魂の咆哮。

 これだ。これが、何も持たない者が到達できる、唯一の頂。

 

 だが、その絶頂の最中。

 

 ふと、暗闇の向こうに「何か」が見えた。

 

 それは、巨大なゴミ捨て場だった。

 

 レイがこれまで捨ててきたもの。

 女の悲鳴。

 母の体温。

 友と交わした酒の苦味。

 

 それらが、巨大な泥の塊となって、背後から迫ってくる。

 

「……なぜだ」

 

 レイは、透明なはずの己の心が、ひどく重くなっていることに気づいた。

 執着を捨てれば捨てるほど、その「捨てたという事実」が、呪いのように彼にまとわりついていたのだ。

 

 何も持たないことに、彼は、誰よりも深く執着していた。

 

 システムが警告を発した。

 

【エラー。個体識別名:レイ。エモーショナル・ウェイト、計測不能。限界突破】

 

 次の瞬間。

 

 レイの視界に、鮮やかな色彩が戻った。

 

 手術室ではない。

 そこは、彼が「最も無意味だ」と切り捨てた、あの雨の日の、ビルの屋上だった。

 

 目の前には、あの日、彼が助けもしなかった女が立っている。

 

 女は笑い、彼の手を握った。

 

「重いでしょ?」

 

 その手の温もり。

 湿った服の重み。

 生臭い、人間の血の匂い。

 

 レイは、激しい吐き気と、それ以上の、涙が出るほどの「生」の感触に震えた。

 

 見れば、彼の腕には、かつて捨てたはずの「汚れた記憶」が、びっしりと百足むかでのように這いずり、刺青となって刻まれていた。

 

 彼は狂ったように笑い転げた。

 

 これが、俺の望んだ「歓喜」か。

 

 何一つ捨てられていなかった。

 

 彼は、地獄のような重みを抱えたまま、この世界で最も「汚れた聖者」として、永遠に醒めることのない夢の中に墜ちていった。

どうだい。

執着を捨て、くうになろうとした男が、最後には「捨てた」という業そのものに押し潰される。


何も持たない、何も残さない。

そう決めた瞬間に、その決意自体が逃れられぬ「呪」となるんだ。

それは残酷な結末かもしれないが、ぼくには、あの日、彼が最後に感じた「重み」こそが、人間の本当の輝き、すなわち「美しさ」に見えてならないんだよ。


君の脳に、この物語の「重み」が残れば幸いだ。

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