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『鋼の脈、肉の呪』

 その男、加納は、人間という不確かな生き物を心の底から嫌悪していた。

 心。それは、朝に誓った愛を夕暮れには裏切り、熱狂のあとに冷酷な沈黙を置く。形もなく、色もなく、ただ腐臭だけを放つ厄介な内臓だ。


 それに引きかえ、モノはいい。

 加納の書斎に鎮座する一挺の機械式時計。一九五〇年代のヴィンテージ・パテック。

 それはいい。嘘をつかない。裏切らない。ゼンマイを巻けば、鋼の心臓が規則正しく、冷徹なまでに正確なリズムで時を刻む。金属の擦れる芳醇な匂い。油の、微かな、しかし確かな存在感。


「これは、一種の『しゅ』だよ」


 加納にその「儀式」を教えた老人は、暗がりでそう笑った。

 モノに心を持たせるのではない。自分の心を、モノへ移すのだという。


 加納の執着は、もはや狂気、あるいは悟りに近かった。

 この不安定な、肉と血の袋に詰まった「心」を、あの完璧な歯車の中に閉じ込めたい。

 彼は、老人が授けた「名前」を時計に刻んだ。

 自分の真名まなを、極細の針で、受け板の裏側へ。


 ──儀式は、月の見えない夜に行われた。


 意識が遠のく中、加納は感じた。

 熱い。

 脳が溶け、視神経が千切れ、耳の奥で轟音が鳴り響く。

 だが、その苦痛の先で、彼はついに「それ」になった。


 よし。

 よし。


 加納は歓喜した。

 今や、彼の視界は円環の文字盤だ。

 拍動は心臓ではない。テンプが刻む、一秒間に八振動の純粋なリズム。

 血管を流れるのは血ではなく、最高級の合成油。

 もはや、誰かを愛することも、憎むことも、裏切られることもない。

 ただ、重力と力学の法則に従い、永遠に等しい精度で「時」という宇宙を回し続けるのだ。


 どれほどの時間が過ぎたろうか。

 加納は、至高の充足の中にいた。

 時折、自分を所有する「かつての自分の肉体」が、脂ぎった指でリューズを巻く。

 その感触すら、今は心地よい。


 だがある日、異変が起きた。

 

 視界が、揺れた。

 凄まじい衝撃。

 重力に引かれ、冷たい大理石の床へ、加納は叩きつけられた。


 バネが跳ね、歯車が噛み合い、一瞬の静寂のあと。

 加納は、叫ぼうとした。だが、声は出ない。

 

 ただ、聞こえてきた。

 時計の「外側」から。


「ああ、壊れちゃった」


 それは、加納の肉体を使っている「何か」の声だった。

 儀式で入れ替わった、あの時計の「魂」だったものだ。

 

「まあ、いいか。モノなんて、壊れればただのゴミだ」


 加納は見た。

 かつての自分の指が、躊躇なく、粉々になった文字盤と歪んだ歯車をゴミ箱へ放り込むのを。

 

 ゴミ箱の中。

 暗闇。

 バナナの皮の腐敗臭。

 

 そこで加納は、生まれて初めて「本物の恐怖」という心を知った。

 モノには、死がないと思っていた。

 だが違ったのだ。

 

 モノにとっての死とは、「誰にも顧みられなくなること」だった。


 壊れた歯車。止まった拍動。

 加納の「心」は、永遠に正確なリズムを刻めないまま、暗闇の中で、朽ちることのない鋼の檻に閉じ込められた。


 ゴミ収集車の、野太いエンジンの音が近づいてくる。

 それは、地獄の亡者が奏でる、太鼓の音のようであった。

どうだい。

モノを愛しすぎた男が、モノになることで、最も忌み嫌っていた「心」の真の残酷さに触れる。

これこそが人の「業」であり、逃れられぬ「呪」というものだ。


君の心に、何か一刺し、残ったかな。

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