『魔力なき皇子の「事務」無双』 ## 第2回:魔導水汲み場の毒霧、あるいは帳簿(グリモワール)による処刑
完璧な数字の羅列ほど、この世に美しいものはない。
右の借方と左の貸方が、一ミクロンの狂いもなく合致した瞬間。世界はカオスから解放され、一枚の静謐な「表」へと帰結する。その時、私の背筋を駆け上がる恍惚感は、この世界のどんな大魔導師が放つ奇跡よりも、深く、濃く、そして淫靡だ。
深夜の王宮、第二層。「魔導水汲み場」。
この世界のエリート気取りたちが、日中にハーブティーを啜りながら「誰の魔力が高の低いの」と下世話な噂話を転がす場所。
だが、真夜中のここは私の領域だ。
私は、私室から持ち込んだドリップパックのコーヒーに、熱湯を注いでいた。
この甘ったるい魔力至上主義の世界には存在しない、泥水のように黒く、漆黒の苦味を持つ液体。前世の私が、丸の内のオフィスビルで残業代という名の血を流しながら、毎晩胃の腑に流し込んでいた「業」の味だ。
「……さて。近衛魔導師団・主計局、ね」
手元の帳簿を捲りながら、私は暗い水汲み場で一人、唇を歪めた。
今日の標的だ。
帝国のエリート中のエリート。最前線に出ることもなく、後方でふんぞり返り、軍事予算を『極秘魔導触媒費』という名目でかすめ取っている寄生虫の群れ。彼らは、魔力を持たない私を「家畜以下の石ころ」と嗤っているらしい。
実に、よろしい。
無能な上司ほど、経費精算のハンコを押す時にいい顔をするものだ。
「……こんな時間に、精が出ますな。第十三皇子殿下」
背後から、声がした。
空気が歪み、オゾンが焦げる特有の匂いが水汲み場に充満する。
振り返らなくてもわかる。致死量の魔力を帯びた、透明な殺意。主計局が雇った『影の暗殺者』だ。私が日中、彼らの部署に「先月の備品購入費、少し計算が合わないようですが」と笑顔で通達を出したことへの、極めてわかりやすい「回答(稟議)」というわけだ。
「暗殺、ですか。効率が悪いですね。そんなことをしても、あなた方の帳簿の穴は埋まりませんよ」
「黙れ、魔力なき家畜が。お前のようなゴミが監査局長を名乗るなど、帝国の恥だ。ここで塵一つ残さず消し炭にしてやる」
暗殺者が、詠唱を始める。
足元から魔法陣が展開し、膨大な熱量を持った炎の魔力が水汲み場の空気を焼き尽くしていく。魔力を持たない者なら、その圧力だけで肺が潰れ、意識を失うほどの高密度な「呪い」だ。
だが、私は手元のマグカップを置き、ゆっくりと振り返った。
「あなた、この部屋に入る前に入退室管理簿にサインしましたか? していませんよね。それは王宮管理規則第12条『無断立ち入り』に該当します。さらに、深夜帯における無許可の魔力発動は、消防法ならびに帝国労働安全衛生法への重大な違反です」
「……狂ったか。呪文の代わりに、そんな戯言で死を逃れられるとでも……!」
暗殺者が両手を突き出した瞬間、水汲み場を破壊するほどの業火が放たれた。
――いや、放たれるはずだった。
ガガンッ!!
炎が私に届くコンマ一秒前、水汲み場の床と壁から、分厚い鋼鉄の壁が瞬時にせり出し、暗殺者の周囲を完全な立方体の檻として囲い込んだ。
放たれた炎は行き場を失い、檻の中で虚しく暴れ狂う。
「な、なんだこれは……!? 魔法障壁……いや、違う! 魔力を一切感じない!」
檻の中から、暗殺者の狼狽する声が響く。
「ええ、魔法ではありませんよ。これはただの『からくり(物理)』です」
私は、鋼鉄の檻に近づき、小さな覗き窓から中の様子を見下ろした。
私の監査局執務室と、この魔導水汲み場には、魔力を感知して起動するのではなく、魔力が引き起こす『空気の膨張と圧力変化』をトリガーにして作動する、極めて原始的かつ機械的な防衛システムを組み込んである。
予算? もちろん、主計局が不正にプールしていた裏帳簿から、正当な『防犯設備費』として私が堂々と徴収して工務部門に発注したものだ。
「……開けろ! この程度の鉄屑、俺の魔力で吹き飛ばしてやる!」
暗殺者が檻の中でさらに魔力を高め、爆発を引き起こそうとする。
「あら、やめておいた方がいいですよ。そのシステム、あなたが魔力を放出して檻の中の気圧を上げれば上げるほど、壁の歯車が噛み合い、四方から『圧縮』される仕様になっていますから」
ギギギギギ……ッ!!
私の言葉を証明するように、檻の壁が、暗殺者の放つ魔力圧力に比例して、内側へとジリジリと狭まり始めた。
物理的な重圧。
魔法という不可視の呪いに頼りきり、肉体の鍛錬を怠った魔法使いにとって、容赦のない「鋼鉄の質量」による締め付けは、まさに未知の恐怖だろう。
「あ、ぐぁ……ッ! 壁が、迫って……!」
「相手を制圧するのに、魔力なんて不確定なコストをかける必要はありません。ただの重力と歯車で十分です」
私は帳簿を開き、ペンを走らせた。
「さて、影の暗殺者さん。あなたの雇用主である近衛魔導師団・主計局長に伝えてください。明日の朝九時、私の執務室へ出頭するようにと。もし遅刻すれば、あなたのこの無様な姿を記録した映像水晶を、皇帝陛下の御前会議で『教育資料』として提出することになります」
「ひ、ひぃ……ッ! やめろ、潰れる、骨が……!」
「ああ、それから」
私は、絶望に顔を歪める暗殺者に向かって、極上の、エレガントな微笑みを向けてあげた。
「あなた、自分の魔力が高すぎて経費の無駄だと思いませんか? 私のこの台帳には、あなたの死さえも既に『備品損耗(ゴミ処理費)』として計上済みですよ。次から暗殺に来る時は、もっとコストパフォーマンスを意識して、決裁ルートを通してから来なさい」
バンッ、と。
私は帳簿に、赤インクで「承認」のハンコを、わざと少し斜めに強く押し付けた。
暗殺者は、自らの魔力が引き起こした物理的圧力によって完全に身動きが取れなくなり、白目を剥いて気絶していた。
静寂が戻った水汲み場で、私は再び黒いコーヒーを啜る。
ああ、苦い。けれど、これがいい。
世界が私の引いた罫線の通りに動き、数字が完璧に一致していく。この恍惚感を手放すことなど、もはやできない。
魔法で人を殺すのは、野蛮だ。
私はもっとエレガントに、相手の「社会的信用」と「退路」を窒息させて殺すのが好きだ。
主計局の解体は、明日の午前中で終わるだろう。
さて、午後のスケジュールは……どの部署の膿を絞り出してあげようかしら。




