『魔力なき皇子の「事務」無双』 ## 第1回:澱みの王宮、あるいは地獄の根回し
「魔力こそ正義の世界。そこで無能と蔑まれた第13皇子の武器は、前世で培った『事務スキル』だった。火を吹くより恐ろしい、地獄の根回しが今始まる。」
空気が重い。
それは物理的な質量というよりも、この「ポラリス帝国」を支配する魔力という名の、目に見えぬ「階級」がもたらす圧力だ。
君、ナイン。
ナインティーン・アーク・ポラリス・第十三皇子。
十五歳の少年である君は、今、冷たい石造りの回廊を歩いている。
君の足音は、静寂に塗り潰された回廊に、乾いた、しかし執拗なリズムで響いている。カツン、カツン。それは、かつて君が二十年間、丸の内界隈のオフィスビルで響かせていた、あのハイヒールの音によく似ていた。
君の中には、二つの記憶が混濁している。
一つは、この煌びやかで残酷な世界の「無能皇子」としての記憶。
もう一つは、日本という国の、某大手企業の営業事務として君臨していた「お局様」としての記憶だ。
君は、自らの内に流れる、魔力の欠片もない血の静けさを愛している。
この世界の住人どもは、指先から火を出したり、風を操ったりすることに必死だが、君から見ればそれは、会議で大声を出すだけで中身のない「脳筋の上司」と同じだ。非効率極まりない。
「魔力至上主義」。
それは一種の、強烈な『呪』**だ。
この世界の連中は、生まれた瞬間に持っている魔力量という「初期設定」に縛られ、それを覆す方法を知らない。だが、君は知っている。組織を動かし、人を殺し、国を転がすのは、派手な魔法ではない。
それは、**『マニュアル』と『根回し』だ。
君が向かっているのは、中央謁見の間。
そこでは、君の「進退」を決めるための、いわゆる『御前会議』が開かれようとしている。
重厚な扉が開くと、そこには焦げたオゾンの匂いと、高価な沈香の香りが立ち込めていた。
正面の玉座には、父である皇帝。左右には、君を「石ころ」としか見ていない兄や姉たちが並んでいる。
彼らが放つ魔力の圧力は、素人なら膝をつくほどだが、君にとっては、締め切り前の殺気立ったオフィスに比べれば、そよ風のようなものだ。
「ナイン。面を上げよ」
声をかけたのは、第一皇子アルフォンスだ。
金糸の刺繍をふんだんに施したマントを羽織り、指先には常に小さな稲妻が躍っている。
彼は、この国で最も「力」という呪いに酔いしれている男だ。
「十五歳になっても、お前からは火の粉一つ出ぬ。ポラリスの血筋を汚す無能に、これ以上の贅沢は許されぬ。……そこでだ。お前には二つの選択肢を与えてやろう」
アルフォンスが、優雅に指を振る。
右側には、荒野へと続く地図。左側には、美しい装飾が施された短剣。
「右を選べば、明日、蛮族の地へ『国外追放』だ。そこでお前の無力さを噛み締めて野垂れ死ね。左を選べば、この場で誇り高く『暗殺(自害)』させてやろう。どちらがいい? 選ばせてやるのが、我ら兄妹の慈悲というものだ」
周囲の貴族たちが、一斉にクスクスと笑い声を漏らす。
彼らにとって、これは娯楽なのだ。力の持たぬ者が、絶望して泣き叫ぶのを見物するための、熱狂の儀式だ。
……よかったわ。相変わらず頭の中「お花畑」のお兄さま方で……
君は、内心でそう呟く。
格闘技で言えば、相手は完全に自分を格下と見て、ガードを下げている。
「アルフォンス兄上。……そして父上。お言葉ですが、その二つの選択肢、どちらも『コンプライアンス違反』ではないでしょうか?」
君の声は、驚くほど透き通っていた。
広間が、一瞬で凍りついたような静寂に包まれる。
「……何と言った?」
「『国外追放』には、帝律第百二十四条に基づく『追放事由明示書』の交付と、三ヶ月前の予告期間が必要です。また、『自害の強要』は、現行の帝国雇用……失礼、帝国臣民保護法におけるパワーハラスメントの最上位に位置する禁忌です。これを公の場で行うことは、王家の品位を著しく汚す行為かと」
君は懐から、一冊の薄い冊子を取り出した。
魔導書ではない。君がこの三日間、城内の図書室と給湯室……いや、召使いの待機所を駆けずり回って、徹底的に「現状のルール」を調べ上げ、作成した『帝国行政不備に関する内部告発状』だ。
「兄上。あなたが昨日、愛妾に贈ったというあの『ドラゴンの涙』の首飾り。あれの購入資金、軍事予算の『福利厚生費』から流用されていますよね? ここに領収書の写しがあります」
「なっ……! 貴様、どこでそれを……!」
アルフォンスの指先の稲妻が、激しく爆ぜる。
激怒だ。だが、怒るということは、図星だということだ。
君は、さらに畳み掛ける。
「第二皇女殿下。あなたが研究費として申請している『魔導具開発費』。実際には、隣国の最新コスメの密輸に使われています。第三皇子殿下……。第四皇子殿下……」
君は、淀みなく彼らの「業」を読み上げていく。
魔法が使えることがステータスのこの世界では、誰もが自らの力に酔いしれ、その裏側の「事務的な穴」を放置し続けていた。
前世の君は知っていた。
どんなに偉そうな部長も、どんなに有能な営業マンも、経費精算のミス一つで、お局様の前に膝をつくのだということを。
広間の熱狂は、今や恐怖へと変わっていた。
魔力を持たぬ少年が、自分たちが最も隠したかった、しかし「大したことではない」と軽視していた泥臭い真実を、白日の下に晒している。
「……ナイン。貴様、死にたいのか!」
アルフォンスが、ついに杖を向けた。
莫大な魔力が集束し、空気が焦げる匂いが強くなる。
だが、君は微笑んだ。
さわやかな皮肉が、君の唇からこぼれ落ちる。
「兄上、今ここで私を殺せば、この告発状のコピーが、街の全教会と、隣国の諜報機関に同時に配布されるよう『根回し』が済んでいます。……魔法を使わずとも、人は動く。恐怖と、利益と、貸し借りによって。これが、私の発見した、この世界で最も効率的な『魔法』です」
アルフォンスの杖が、震えた。
君は、第3の道を提示する。
「国外追放も、暗殺も、コストがかかりすぎます。……ですから、私はここに『帝国監査局』の設立を提案します。私がその局長に就任し、皆様の……その、少しばかり『だらしのない』日常を、徹底的に管理させていただきたい。そうすれば、国庫は潤い、軍備も整うでしょう。いかがですか、父上?」
玉座に座る皇帝が、初めて身を乗り出した。
君、ナイン。
君は、石橋を叩き割るような臆病者だった。
だが、その橋の先に「確実な勝利」が見えたとき、君は誰よりも大胆に、相手の喉元を掴むことができる。
魔法という名の呪いに縛られた世界に、今、**『事務』という名の、より深く、逃れられない呪**が誕生したのだ。
よろしい、稟議は通しておきましたわ。
第十三皇子の執務室への出勤時間は、明日の朝八時。
もちろん、遅刻は厳禁だ。




