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署名の残響

その男、マクシミリアン・カドゥケウス・フェンリールは、朱肉の匂いの中に生きていた。

 魔法官省、第四認可局。

 そこは、奇跡が「書類」へと成り下がる場所だ。

 火球を放つのに三通の申請書。

 治癒を施すのに二名の保証人。

 空を飛ぶには、航空局の割印が必要だった。


「リール、また差し戻しだ。印影が欠けている」

「失礼しました。直ちに」


同僚の嘲笑に、リールは無表情で頭を下げる。

 マクシミリアンという仰々しい名は、この薄暗い事務室では無意味だ。彼は「リール」という名の、単なる事務処理機械だった。

 権力に巻かれ、エゴを殺し、ただ淡々とハンコを捺す。それが彼の自己防衛であり、この歪んだ世界で生き残る唯一の「しゅ」であった。


魔法とは、本来、個の意志が世界を書き換える行為である。

 だが、この国はそれを恐れた。

 個の意志を、官僚機構という巨大なフィルターで濾過し、牙を抜いた。

 魔法杖の代わりにハンコを。

 呪文の代わりに定型文を。

 そうして世界は、管理された平穏を手に入れたのだ。


だが、その平穏に「穴」が空いた。


「事象臨界、確認。……世界崩壊まで、あと三十分」


局内に警報が鳴り響く。

 空には巨大な亀裂が走り、そこから「虚無」が溢れ出していた。

 これを封じるための魔法『世界再編レ・ジェネシス』を起動するには、特級承認が必要だった。

 そして、その魔法には「触媒」が要る。

 

 聖女エルーカ。

 リールが、かつて一度だけ、エゴを殺しきれずに微笑みかけた女だ。

 彼女の命を「朱肉」に変え、特級印を捺せば、世界は救われる。

 それが、この世界の規約プロトコルだった。


「リール、準備しろ。エルーカを祭壇へ。お前がその手で、承認印を捺すんだ」


局長が震える声で命じる。

 リールの前には、一枚の羊皮紙。

『世界存続に関する申請書』。

 その隣には、エルーカが横たえられている。彼女の胸元には、すでに「にえ」としての術式が刻印されていた。


エルーカがリールを見た。

 その瞳には、諦念と、微かな期待があった。

 殺してほしい。世界のために。

 生かしてほしい。私という個のために。


リールは、愛用の柘植つげの印鑑を手にした。

 指先に伝わる、硬い感触。

 朱肉の、鉄錆に似た匂い。

 

 もし、印を捺せば。

 エルーカは死に、世界は救われる。

 リールは「忠実な官僚」として、これからもエゴを殺して生きていくだろう。

 もし、印を捺さなければ。

 世界は滅び、二人も消える。

 それは、ただの心中だ。


リールは、事務机の引き出しを開けた。

 そこには、一本の羽ペンがあった。

 魔法が「制度」になる前、古の魔術師たちが使っていた遺物だ。


「……リール、何を」


局長が目を見開く。

 リールは、手に持った印鑑を、床に叩きつけた。

 パリン、と乾いた音がして、柘植が砕ける。

 代々の官僚たちが魂を込めてきた、魔法発動の「鍵」が失われた。


印鑑ハンコなど、もういらない」


リールは、エルーカの腕を取った。

 そして、彼女の肌に直接、羽ペンを走らせた。

 

 さらさらと、インクが流れる。

 それは、マクシミリアン・カドゥケウス・フェンリールという、一人の男の「署名サイン」だった。


その瞬間。

 世界が、絶叫した。


ハンコという「おおやけの呪」を介さぬ、純度百パーセントの「個の署名」。

 それは、管理され、希釈されていた魔力を、一気に臨界点まで沸騰させた。

 署名は血のように赤く光り、エルーカの体から溢れ出した魔力が、空の亀裂を暴力的に押し返していく。


増幅。

 過負荷。

 そして、破綻。


個の意志が強すぎたのだ。

 官僚機構という脆弱なシステムは、リールの強大すぎるエゴを処理できず、火花を散らして崩壊を始めた。

 壁の印鑑たちが次々と爆ぜる。

 認可局の書類が、一瞬で灰に変わる。


やがて。

 光が収まったとき、空の亀裂は消えていた。

 

 だが、同時に「何か」も消えていた。

 局長が、火球を出そうと、割れたハンコを虚空に突き出す。

 何も起きない。

 リールが、指を鳴らす。

 火花一つ、散らない。


「魔法が……消えた?」


局長が呆然と呟く。

 そう、リールの署名は、世界を救うと同時に、この世界の魔法システムそのものを「封印」してしまったのだ。

 署名という、変更不可能な「個の決定」によって、魔法は「制度」から「事実」へと固定され、その機能を停止した。


リールは、エルーカを抱きかかえ、立ち上がった。

 彼女は生きている。

 

「これからどうするんだ、リール! 魔法のない世界で、我々はどうやって管理をすればいい!」


背後で局長が叫ぶ。

 リールは振り返らず、事務室の出口へ歩いた。

 彼の顔には、もはや「自己防衛の無表情」はなかった。


「自分で考えろ。これからは、ハンコはいらない。直筆の履歴書でも書いて、職を探すんだな」


リールは、自分の名前が刻まれた名札を、ゴミ箱に捨てた。

 外に出ると、魔法の灯火が消えた街に、本当の朝日が昇ろうとしていた。

 

 それは、非常に非効率で。

 非常に面倒で。

 そして、たまらなく美しい、新しい世界の始まりだった。

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