『虚空の林檎、激怒の果て』
新月の夜、世界は「正気」を失う。
空に裂け目が走り、そこから這い出すのは、この世の物理法則では測り得ぬ魔獣どもだ。奴らは街を破壊しない。ただ、冷徹なまでの「問い」を投げてくる。
知恵比べ。
負ければ、その魂は魔獣の住まう影の世界へ連れ去られ、二度と戻ることはない。
エイプル。
本名、エイブラハム・イシュマエル・ルミナス・ポラリス。
かつて栄華を極めたポラリス王家の第三王子でありながら、今はただ「林檎喰い」と蔑まれる囚人だ。
彼は親友――現国王に、ある「呪」をかけられていた。
「エイプルは、神の禁じた『知識の実』を盗み食いした」
そんなものは嘘だ。だが、言葉は一度放たれれば、実体を持って人を縛る。彼は重罪人として、新月の夜の「生贄」に選ばれた。
新月の闇。
霧の中から現れた魔獣は、巨大な「知恵の天秤」を携えていた。
魔獣の吐息は、古い墓場の土のような匂いがした。
「知識の実を食らいし者よ。問いに答えよ。この世界で最も『重い』ものは何か?」
魔獣の問いは、残酷な二者択一を迫る。
「愛」と答えれば「裏切り」を見せつけられ、「金」と答えれば「死による無価値」を突きつけられる。どちらを選んでも、知恵の天秤は傾き、敗北という名の絶望が待っている。
周囲で見ていた民衆は、かつての英雄が墜ちる様を、残酷な見世物として熱狂的に見守っていた。
彼らの目に宿るのは、自分たちが連れ去られないことへの安堵と、高潔な者が泥を塗られることへの卑俗な喜びだ。
「さあ、エイプル。お前の食らった知識の力を見せてみろ!」
親友であった国王が、高台から嘲笑を浴びせる。
エイプルの内で、何かが弾けた。
悲しみではない。それは、底知れぬ「激怒」だった。
自分を裏切った友へ。自分を嘲笑う民衆へ。そして、この不条理な世界のルールそのものへ。
怒りは熱い。脳髄を焼く。
彼は、自らの喉の奥に指を突っ込み、胃液と共に「あるもの」を吐き出した。
エイプルが天秤に載せたのは、言葉でも概念でもなかった。
それは、彼が牢獄で唯一隠し持っていた、腐りかけの「ただの林檎」だ。
「答えだ。この世界で最も重いものは、『俺が食わなかった林檎』だ」
天秤は激しく揺れ、静止した。
魔獣の瞳が、驚愕に揺れる。
エイプルは続けた。乾いた、歴史書の一節のような声で。
「俺は実など食っていない。だが、お前たちは俺が食ったと決めた。ならば、存在しない実の重さを、お前たちは一生計り続けるがいい。俺の怒りは、お前たちの知恵では決して割り切れない」
知恵比べのルールが崩壊した。
「知識の実」という嘘の定義そのものを突きつけられた魔獣は、論理の迷宮に囚われ、そのまま自壊して消えた。
新月の霧が晴れていく。
エイプルは自由になった。
だが、彼は王位も、名誉も求めなかった。
彼はただ、自分を売った親友の首に、そっと手を置いた。
その手の温もりは、雪山で遭難した者が最後に感じる、死の安らぎに似ていた。
「お前は俺に『知識を食った』という呪いをかけたな。ならば、これからはお前が、俺の『怒り』という名の知恵を、死ぬまで食らい続ける番だ」
エイプルは、民衆の歓声も、国王の命乞いも無視して、独り荒野へと歩き出す。
翌朝。
国王の口からは、本人の意思とは無関係に、黄金の輝きを放つ「言葉の林檎」が次々と溢れ出し、彼は自らの言葉の重みに押し潰されて絶命した。
世界には、新月の代わりに、消えることのない「王の絶叫」が刻まれた。




