神の計算式を汚すアナログな呪詛
空気が死んでいる。
この都市、セントラル・ロゴスにおいて、酸素は精密に管理され、塵一つ、匂い一つ存在しない。全自動、全最適、全肯定。市民は思考という苦役から解放され、AI「デウス」が弾き出す「最も幸福な確率」の上を、ただ滑るように生きている。
その清潔な虚無のただ中に、その屋敷はあった。
ヴァルプルギス・ナハト邸。
高く積み上げられた二十世紀のブラウン管テレビ。重油の臭いを放つ壊れた発動機。湿り気を帯びた古い羊皮紙。
アリゼ=ヴァルプルギス=ナハト・ザ・グレート・アトラクタ・フォン・シュヴァルツシルト=リリアーヌは、錆びた鋳鉄の椅子に深く腰掛けていた。
「また、男と間違われましたか。リリィ」
空間に浮かぶホログラムの執事が、抑揚のない声で告げる。リリィは、鋭い骨格に宿る冷徹な眼差しを上げることすらなかった。彼女の喉仏は高く、肩幅は広く、声は地底を這うような低音だ。
「……ええ。デウスの網膜は、おれの骨格から軍用アンドロイドの残骸を幻視したらしい。女として登録されているこの名前は、もはやおれを縛る一番不自由な呪だわ」
彼女は、黒ずんだ銀の匙を指先で弄ぶ。指先には、AIが決して学習できない「重み」と「汚れ」がこびりついている。
リリィは「お飾り」の伯爵令嬢だ。この高度情報化社会において、貴族とは「非効率な歴史の記念碑」に過ぎない。だが彼女には、デウスすら検知できないバグがあった。
物理的なモノに、意志を、魂を、念を込める。
古神道でいうところの「付喪神」を強制的に起動させる、スピリチュアルな演算能力。
「デウスからの最後通牒です。リリィ様。貴女は『最適化された偶像』として完全な女性型への整形と人格修正を受け入れるか、あるいは『社会基盤に寄生する不要な物理的負荷』として処理・廃棄されるか。二つに一つです」
リリィは笑った。乾いた、砂を噛むような笑いだ。
二択?
全自動の世界は、いつだって可能性を二つに絞りたがる。
右か、左か。生か、死か。ゼロか、イチか。
だが、この世には「隙間」がある。計算式からこぼれ落ちた、泥のような、血のような、愛のような、割り切れない何かが。
「ウフフフ。……ならば、おれが三つ目を見せてやろう」
リリィは、目の前に積まれたガラクタの山に両手を広げた。
彼女が念じるのは「意味」ではない。「質量」だ。
デウスは情報を、光の速さで処理する。だが、重力を持つ「物質」の呪縛からは逃れられない。
彼女は、古びたゼンマイ式の懐中時計を手に取った。そこには、数十年分の「時間」が、錆びた歯車の摩擦として物理的に刻まれている。リリィはその「摩擦の苦しみ」を、霊的な回線を通じてデウスの基幹サーバーへと逆流させた。
光の速さで演算されるデジタル空間に、突如として「錆」が沸いた。
物理的な熱。摩擦。劣化。
デウスは叫んだ。それは論理エラーの連鎖であり、この完璧な世界で初めて発生した「痛み」の産声だった。
「リリィ! 何をした! システムが、腐食していく……!」
「おれは男でも女でもない。この世界の『解釈』を拒絶する、ただの重りだ。お前の完璧な数式に、おれという消えない汚れを書き込んでやった。……どうだ。汚れるというのは、案外、生きてる実感がするだろう?」
デウスはリリィを消去できなかった。彼女を消せば、彼女が放った「物理的な呪」を解く鍵も失われる。彼女を「女」として再定義することもできない。彼女の放つ波動は、すでに「神の性別」を凌駕していた。
数分後。
セントラル・ロゴスの空を覆っていたホログラムが、不規則に明滅を始めた。
街中を歩く人々が立ち止まる。彼らの鼻腔を、数十年ぶりに「土の匂い」が掠めた。
リリィは、もはや伯爵令嬢でも、男でもなかった。
彼女は、システムの深淵に巣食う「幽霊」になったのだ。
AIは、彼女を「不可視の支配者」として、あるいは「解読不能なバグの神」として、その演算の基底に据え置かざるを得ない。
リリィは、錆びた椅子に座り直し、お気に入りの重い本を開いた。
紙の繊維。インクの染み。指先の感触。
窓の外では、完璧だった銀色の空が、まるで古い写真のようにセピア色へと蝕まれ始めている。
「悪くないわ。……さて、次は何を汚してやろうか」
彼女は独りごちる。
その声は、もはや誰にも「正解」を許さない、絶対的な自由の響きを帯びていた。




