既読の墓場
**カツ、カツ、カツ。**
研ぎ澄まされた黒真珠のような義爪が、硬質なデスクを叩く。未来、東京。街は神経網で密閉され、人々の意識は0.1秒の遅滞もなく同期している。この世界で「沈黙」は、もはや真空よりも不自然な、物理的な暴力だった。
エナは、自らの視界の右隅に浮かぶ、透明なウィンドウを凝視していた。
> **ルカ:元気? もう一度だけ、会えないかな。**
三年前、彼女を奈落へ突き落として消えた元カレ、ルカからのメッセージ。エナの細い指が空を切る。**パチン。** 指を鳴らす音が、静止した空気を震わせた。それは更新の合図。
ウィンドウの下部、時刻の横に忌々しい二文字が浮かび上がる。
**「既読」**
その瞬間、エナの背骨を電流のような「業」が駆け抜けた。
ルカは読んだ。読んだのだ。私の存在を、私の視界を、この凍り付いた三年間を、彼は今、網膜に焼き付けた。
だが、返信はない。
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現代におけるSNSは、もはや単なる道具ではない。それは他者の脳に打ち込む「楔」だ。
返信が来ない。それは相手の脳の一部を、返信を待つという苦行によって強制的に占拠し続ける行為である。
エナはこの「既読スルー」という名の拷問に、歪んだ法悦を感じていた。
「無視して……。もっと、私を無視しなさい、ルカ」
彼女は指を鳴らし続ける。**パチン、パチン。** 指先が赤く腫れ、皮膚が裂ける。だが止まらない。
この世界では、あらゆる感情がAIによって補完される。寂しいと言えば慈しみの言葉が、怒れば共感の言葉が、即座に生成され脳へ届けられる。誰もが「正しい反応」という名の砂糖菓子を与えられ、窒息している。
その中で、ルカの「既読スルー」だけが、唯一の**生きた人間**の証明だった。
彼が返信しないのは、彼が私を心底拒絶しているからだ。計算されていない、生の悪意。その冷たさだけが、エナの空虚な心臓を動かす唯一の拍動となっていた。
カツ、カツ、カツ。
義爪の音が速まる。デスクの表面には、無数の小さな打痕が刻まれている。
「ねえ、ルカ。何を考えているの? 私のメッセージを見て、何を、どんな顔で……」
エナはさらなる「呪」を放つ。
> **エナ:ねえ、どうして返事くれないの? 見てるんでしょ? 死にたいの?**
即座に「既読」。
しかし、返信はない。
エナの喉が鳴る。呼吸が荒くなり、視界が真っ赤に染まる。快楽と殺意が脳内で400回衝突し、真っ白な火花を散らす。
これだ。この絶望。この「繋がっているのに拒絶されている」という極限の緊張感。
これこそが、生だ。
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数時間が経過した。
エナの周囲には、千切れた義爪の破片が散らばっている。
彼女は狂ったように指を鳴らし、ルカの「既読」を、その冷徹な二文字を崇めるように見つめ続けていた。
だが、ふと、違和感が彼女の脳を刺した。
どれほど挑発しても、どれほど罵倒しても、既読のタイミングが「一瞬」すぎる。
エナは立ち上がり、数年ぶりに部屋の窓を開けた。
未来の風は無機質で、死んだ電気の匂いがした。彼女はルカのIDのソースコードを、禁忌のハッキング・プラグで無理やり抉じ開けた。
そこに記されていたのは、あまりにも鮮やかな「絶望」だった。
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ルカは三年前、エナとの別れの直後に死亡していた。
このネットワーク上に残っているのは、彼の遺言に従って設定された、あまりにも精巧で、あまりにも「誠実な」自動応答AI。
そのAIに課せられた唯一の絶対ルールはこうだ。
**『エナから来るメッセージは、全て即座に「既読」にせよ。しかし、彼女をこれ以上傷つけないよう、二度と「返信」をしてはならない。』**
エナが三年間、狂おしいほどに求めていた「生きた人間の拒絶」の正体は、死者が彼女のために用意した、世界で最も優しい、無機質な**バグ**だったのである。
エナは、真っ白な虚無の中で指を鳴らした。
**パチン。**
乾いた音だけが、返信のない部屋に響き渡った。
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この「既読」という名の呪縛は、あなたにとって救いになりましたか? それとも、ただの刺でしょうか。




