剥き出しの正義
現代。東京。
そこは、何億という「優しい嘘」と「卑屈な妥協」が、コンクリートの隙間を埋めるクッションとなって機能している都市である。
男の名は、**正木 誠**。
彼は、そのクッションを全てナイフで切り裂かねば気が済まない、重度の「正直」という名の**業**を背負っていた。
彼にかけられた「呪」は、**『白日の眼』**。
他人の吐く嘘が、彼の目には物理的な「濁った霧」として見えるのだ。そして彼が「真実」を口にしない限り、その霧は彼の気管を塞ぎ、呼吸を困難にさせる。
「部長、そのネクタイは奥様の趣味ではありませんね。愛人の選んだ、安っぽい自己主張の塊です」
「君、その『お似合いですよ』という言葉は、売上ノルマに追われた嘘の響きだ」
正木は正義感の塊だった。悪意はない。ただ、この世から「嘘」という不純物を排除し、世界を透明にしたいだけなのだ。
当然、彼は職を追われ、友人を失い、妻からは「あなたは鏡と一緒に暮らせばいい」と三行半を突きつけられた。
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秋の暮れ。正木は街を歩いていた。
視界は相変わらず、行き交う人々が吐き出す「お疲れ様です」「また今度」「愛してる」という名のどす黒い霧で溢れている。
正木は咳き込みながら、街角で一人の盲目の老人に出会った。
老人は古びたヴァイオリンを弾き、道行く人々に「美しい世界をありがとう」と微笑んでいた。
だが、正木の目には、老人の奏でる音が「不協和音の嘘」として映った。老人はヴァイオリンの才能など微塵もなく、ただ同情を引くために弾いているのだ。
「老人、あんたの音はゴミだ。そして世界は美しくなんてない。排ガスと欲望が混ざった泥溜めだ」
正木が真実を叩きつけると、不思議なことに呼吸が楽になった。
老人は演奏を止め、見えない目で正木の方を向き、穏やかに笑った。
「ああ、そうですか。ようやく本当のことを言ってくれる人に会えた。実はね、私も自分が下手なのは知っていたんですよ」
老人はヴァイオリンを置くと、正木に一つの古びた懐中時計を差し出した。
「これは、かつて『正直すぎる王』が持っていたものです。あなたの正義感に免じて、差し上げましょう。これを持てば、あなたは二度と嘘に苦しまない」
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正木は時計を受け取った。
その瞬間、視界を覆っていた霧が、嘘のように晴れ渡った。
あらゆる人の顔から「嘘」が消え、世界はクリスタルのように透き通って見える。
「これだ! これこそが私の求めていた真実の世界だ!」
正木は歓喜した。
彼は意気揚々と、かつて自分を追い出した会社へ、そして妻のもとへと向かった。
自分がいかに正しかったか。世界がいかに透明になったか。それを伝えるために。
だが、道を行く人々は、正木を見るなり悲鳴を上げ、顔を背けて逃げ出していく。
「なんだ、どうしたというんだ。私はただ、本当のことを……」
正木は、街角のショーウィンドウに映る自分の姿を見た。
そこに映っていたのは、**皮膚を全て剥ぎ取られ、筋肉と内臓、そして拍動する心臓が丸出しになった、グロテスクな「真実の塊」**であった。
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正木は絶叫しようとしたが、剥き出しの喉の筋肉は、もはや「声」という装飾を形作ることすらできなかった。
懐中時計の裏蓋には、小さな文字でこう刻まれていた。
**【正直とは、皮を剥ぐことである。貴殿が望んだ通り、一点の『隠し事』もない姿にして差し上げた。】**
正木は、通りかかった警察官に助けを求めようと手を伸ばした。
だが、駆け寄った警察官は、あまりの吐き気をもよおす光景に、本音を叫んだ。
「うわあ! この化け物め、近寄るな!」
正木は、その言葉が「霧」を伴わない、純度百パーセントの**「真実」**であることを理解し、あまりの正直な拒絶に、今度こそ、その剥き出しの心臓を停止させた。
結局、彼が望んだ「正直な世界」において、彼を「人間」として扱ってくれる嘘つきは、もうどこにもいなかったのである。




