07.善人
今日のグート訪問は突然の事だった。
とっさにやり過ごして時間を稼ぐしかできなかった。
だけどわざわざ貴族の後継が出張って来たからには、どうあっても私を連れて行く気と見ていい。
「リーリエ。私たちは今から旅行に行く」
「旅行? どこへ?」
「クアオルト。国境近くの塩湖が有名な温泉地だ。砂漠を越えてメルゼブルクに逃げるには、準備が足りない」
逃げる、とグリゼルダは言った。
「薬草畑や、研究はどうするの?」
「薬草畑はゴーレムに任せる。2体いるから、マンドラゴラと庵の前に1体ずつ。研究はどこでもできる」
グリゼルダの手が、押し黙ってしまった私の頭を優しく撫でる。
「リーリエは、お母さんと一緒に居たいだろう?」
「居たい!」
「ならば、今夜発つ」
その夜。
夜陰に紛れて黒い森を出ようとした私たち。
庵から出た私たちを待ち構えていたのはギルド長。
「悪いが、行かせるわけにはいかない」
いつも、グリゼルダには、いい顔をしようとするのに。
「このまま行ったら、間違いなく誘拐犯になるぞ」
私ではなく、グリゼルダに向けられた言葉。
「娘を守るのは、母親の役目だ」
「惚れた女を守るのは、男の役目だろ」
――その無精髭がなければ、格好良い台詞だった。
「カナーリエン子爵家が諦めるまで身を隠すだけだ。ほとぼりが冷めたら戻る」
「諦めると思うか? 何年も前に消えていた娘を今更探して、白い精霊なんて噂にも飛びつく連中が」
「その通りだ」
響いた声は、エルンストのもの。
私たちの行動は、2人にすっかり読まれていたらしい。
私は舌打ちしたくなるのを堪える。
「あの後継は、基本的には善人だ。その分、自分の仕事と決めた事から手を引くことはないだろう。そして、善人でも貴族。リーリエをレルヒェ嬢として連れ戻す為に使える駒は、使う筈だ」
ああいう手合いは厄介だ、と言うエルンストに、ギルド長も同意する。
「懲りずに何度でも訪れるぞ。逃げれば指名手配だ。どうする?」
◇
グート・カナーリエンは、翌日もエルンストとギルド長、私兵を1人だけ連れて、黒い森の庵へとやって来た。
「レルヒェ――」
「私はリーリエよ」
猫を被るのをやめて、私は本音で向き合う。
グートが目を瞬く。
「……昨日とは、だいぶ雰囲気が違うね?」
「どうして私を連れていきたいの?」
「君はレルヒェ。カナーリエン子爵令嬢。父上が待っている。父上は君への仕打ちを心から悔いているんだ。毎日、君の名を呼んでいる」
「私を連れて行っても、子爵に優しい言葉はかけないし、謝罪も受け入れない」
「育ての親の手前、実父に会いたいと言えないだけだろう?」
このグートという男には、何故、私が拒絶しているのか全く理解できないのだろう。
子爵令嬢という餌をぶら下げれば、喜んで飛びついてくるとでも思っていたに違いない。
「私は、放っておいて欲しいの。関わりたくないのよ」
私はあの日、全てを捨てて逃げた。
やっと手に入れた、あたたかい安息の時間。
私のグリゼルダとの日々を壊さないで。
「……貴方は、私があの部屋でどう過ごしていたか、どれくらい理解しているの?」
私の声から温度が消える。
悲しい記憶には、ずっと蓋をしていたのに。
「殴られたわけでも、ムチで打たれたわけでもないわ。最低限の食事と衣服しか与えられなかっただけ。誰からも話しかけられず、抱きしめられることもなかっただけ」
感情を失った声が淡々と私の孤独を吐き出していく。
皆が息を詰めて、その先の言葉を待つ。
「ただ、愛されなかっただけ。それだけで、子どもの心は殺せるのよ。3歳に満たない子が、いなくなりたいと思う。消えてしまいたいと願う。愛されることも生きることも諦める」
「――それが、どれだけ残酷なことかわかる?」
前世の記憶が戻ってから、言葉と身体強化魔法、収納魔法を覚えて逃げ出すのに、2年かかった。
今の人格は、前世の記憶に引き摺られている。
それでも、私の中に。
あの幽閉の日々の孤独が。
誰かの温もりを渇望していた心が、烙印のように焼きついている。
「今さら、なんなの。私は……レルヒェじゃない……」
滲んだ涙で視界が霞む。
この善人は、私がどのような扱いを受けたかの事実は知っていても、私の心を想像することは微塵もできていなかったらしい。
言葉を失い、顔色を失い、ただ呆然と立ちつくす。
(――ずっと、そっとしておいてくれれば良かったのに)
気の強い私が静かに涙をこぼす姿。
エルンストとギルド長も、私にかける言葉を見つけられず、ただ、立っている。
「お引き取り願おうか」
凛と響くグリゼルダの声に、彼らは黙って庵を後にした。
◇
その翌日。
繰り返される光景。
また現れた4人に、私は心底うんざりした。
昨日の私の言葉は、この善人には届かなかったの?
「……話せば、わだかまりも解ける筈だ。やはり一度は、父上に会うべきだ」
「私はグリゼルダに拾われなければ死んでいたわ」
「君に直接損害を与えたメイドたちは、全員、罰を受けたよ」
まるでカナーリエン子爵には罪のないような言い方。
「なるべく手荒な事はしたくないんだ」
グートの言い方が引っかかる。
まるで――
黒い森の奥から攻撃魔法の衝撃音が響いて土煙が上がる。
「!?」
ばっ、とグートを見る。
貴族らしく整った顔には、冷徹さがあった。
「あそこには、貴重な薬草畑があるそうだね」
マンドラゴラとアンブロシア!
さっきの土煙はゴーレムとの戦闘。
貴族が最初から手の内を見せるわけがない。きっと別行動をしている私兵たち!
「……卑怯者」
「僕は、自分の仕事をしているだけだよ」
薬草畑は警告。
次は、きっと――
私は色が変わるほど拳を握りしめる。
「……一度だけ」
「リーリエ! いけない! 帰ってこれる保証など……!」
珍しく冷静さを欠いたグリゼルダの声。
「すぐに帰る。それでいいなら」
私の返事に、冷徹な貴族の顔を仕舞った善人は満足そうな顔を見せた。
お読みいただき、ありがとうございました!
次回は明日、【夜20時20分】に更新します。




