金と菓の天秤
あの後、お父様が心配して部屋に来たり、サラが過保護になったりと少し忙しかったが、殿下を出迎える支度は整った。
過去の記憶では、殿下の訪問は公なものではなく、王家とリュミエール家だけでの内々のものだった。
玄関先に使用人をずらりと並べる必要はなく、お兄様たちの姿もない。
応接室で、お父様と並んで出迎える――それが既に決められた段取りだった。
(あの時の私は理解していなかったけれど、ほとんど決められた訪問で、決められた婚約だったのね……)
気が重くなりながら、応接室へ向かう。
先に席に着いていたお父様と少し歓談していると、ノックの音が響いた。
「セドリック・ヴィ・アルヴェイン様がお越しになられました」
執事長クラウスの声とともに、応接室の扉が静かに開き――
第一王子セドリックが姿を現す。
(……っ、来た……!)
エリスの心臓がドクンと大きく鳴った。
金糸で縁取られた外套に、王家の紋章を刻んだ礼服。
幼いながらも、その所作には王族としての気品と洗練が漂っていた。
リュミエール公爵とエリスは並んで立ち、恭しく出迎えた。
「リュミエール公爵家を代表し、殿下のご来訪を心より歓迎いたします」
父の声が重々しく響く。
父の次は、エリスの挨拶の番だった。
喉が詰まり、膝が震えそうになる。あの時の悪夢がよみがえり、世界から音が消えたように感じた。
だけど。
「…王国の若き太陽にご挨拶を。エリス・フォン・リュミエールにございます。本日はわが家へお越しくださり、誠に光栄に存じます」
声は澄み渡り、動きに乱れはない。
深く、完璧な礼を取るエリスの姿に、周囲の使用人たちも息を呑む。
(震えちゃダメ……わたくしはリュミエール家の娘。今度こそ、絶対に殿下の前で怯んではいけない!)
胸の奥で必死に恐怖を押し込め、顔を上げる。
そこには、黄金の髪を光に揺らめかせる王子が立っていた。
絵画のように整った顔立ち。その美しさが胸を締めつける。
(この方の微笑みに、わたくしはすべてを捧げて……そして、殺された)
唇を固く結び、真っ直ぐ視線を合わせる。
怯えは一切悟らせない――気高く、毅然と。
――その姿は、誰の目にも堂々たる淑女そのものだった。
「…。」
本来ならセドリック殿下が挨拶する番だが、返答はまだない。
吸い込まれるような美しい碧い瞳に視線を奪われ、エリスは戸惑う。
(何か粗相をしてしまったかしら…?)
正直、緊張と恐怖で倒れそうになる。
この時間を一刻も早く終えたい――そう思ってしまう。
「…あぁ、失礼いたしました。王家を代表し、招きに感謝を。
セドリック・ヴィ・アルヴェインでございます。
リュミエール家の厚きもてなしに、心より礼を述べます」
それぞれの挨拶を済ませ、席に着く。
やがて談笑の後、エドムンドが立ち上がった。
「では、少し席を外そう。――お二人で、ゆっくり話すといい」
(えっ……お父様!? 一人にしないでくださいましっ……!)
内心で悲鳴を上げるエリスをよそに、扉は静かに閉じられた。
応接間には、エリスとセドリックだけ――使用人もいない。
「「……。」」
しばしの沈黙。
ふと、セドリック殿下を見つめる。
黄金の髪も碧い瞳も、記憶のまま。
けれど――。
(……小さい、ですわね)
当たり前だ。今の彼は十歳。
精神年齢では、むしろ自分の方がはるかに年上。
(なにをそんなに怖がっていたのかしら……?
殿下の婚約者にさえならなければ、怖いものなど何もないのでは?)
そう思うと、張り詰めた緊張がすっとほどけた。
安心が胸に広がると――不意に、ぐぅ、と小さな音が鳴る。
思えば、朝は殿下来訪の報せに動揺して、食事が取れていなかった。
(あんなにいい匂いのスープと出来立てのパンでしたのに……
クラウスに頼んで自分の分は取っておいてもらったけれど、あの時食べられなかったことに腹が立ってきましたわ!)
自然と目が吸い寄せられるのは、机に並べられた彩り豊かな茶菓子。
薄衣のように繊細な砂糖菓子。
外はさくり、内はほろりと溶ける焼き菓子。
きらめく果実のジャムがのった、小さなタルト。
――無意識に指先が伸びる。
……はむっ。
「~~~~っ!!! おいひい……っ」
頬に広がる柔らかな甘さ。
舌の上で溶ける幸福に、思わず頬が緩み、涙が滲みそうになる。
(……甘いものを食べるなんて、いつぶりでしょう……!)
思い返せば最期の頃、与えられたのは生きるための最低限の粗末な食糧ばかり。
贅沢など一切許されず、甘味など夢のまた夢だった。
安堵と怒り、好きなだけ食べられることの幸せを知ったエリスを、もはや誰が止められるだろうか。
「……しあわへ…」
小動物のように菓子を食べ進めるエリスの瞳は、喜びで潤んでいた。
その様子を真正面から見ている、この国で最も尊い方がいることも忘れて。




